・・・のみならず半之丞は傷だらけになり、這うようにこの町へ帰って来ました。何でも後で聞いて見れば、それは誰も手のつけられぬ盲馬だったと言うことです。 ちょうどこの大火のあった時から二三年後になるでしょう、「お」の字町の「た」の字病院へ半之丞の・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・陳は咄嗟に床へ這うと、ノッブの下にある鍵穴から、食い入るような視線を室内へ送った。 その刹那に陳の眼の前には、永久に呪わしい光景が開けた。………… 横浜。 書記の今西は内隠しへ、房子の写真を還してしまうと、静に長椅子から立ち・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・軒先に垂れた簾の上には、ともし火の光を尋ねて来たのでしょう、かすかに虫の這う音が聞えています。わたしは頭を垂れたまま、じっと御話に伺い入りました。四「おれがこの島へ流されたのは、治承元年七月の始じゃ。おれは一度も成親の卿と、・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ 下人は、守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。 見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・やがて若者は這うようにして波打際にたどりつきました。妹はそんな浅みに来ても若者におぶさりかかっていました。私は有頂天になってそこまで飛んで行きました。 飛んで行って見て驚いたのは若者の姿でした。せわしく深く気息をついて、体はつかれ切った・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・手を取って助けるのに、縋って這うばかりにして、辛うじて頂上へ辿ることが出来た。立処に、無熱池の水は、白き蓮華となって、水盤にふき溢れた。 ――ああ、一口、水がほしい―― 実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うので・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・切禿で、白い袖を着た、色白の、丸顔の、あれは、いくつぐらいだろう、這うのだから二つ三つと思う弱々しい女の子で、かさかさと衣ものの膝ずれがする。菌の領した山家である。舞台は、山伏の気が籠って、寂としている。ト、今まで、誰一人ほとんど跫音を立て・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・三羽の烏はわざとらしく吃驚の身振地を這う烏は、鳴く声が違うじゃろう。うむ、どうじゃ。地を這う烏は何と鳴くか。初の烏 御免なさいまし、どうぞ、御免なさいまし。紳士 ははあ、御免なさいましと鳴くか。御免なさいましと鳴くじゃな。初の烏・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・あの女は羨しいと思いますと、お腹の裡で、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそと這うような、ものをいうような、ぐっぐっ、と巨きな鼻が息をするような、その鼻が舐めるような、舌を出すような、蒼黄色い顔――畜生――牡丹の根で気絶して、生死も知・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・そのでっぱなに巨大な松が七、八本、あるいは立ち、あるいは這うている。もちろん千年の色を誇っているのである。ほかはことごとく雑木でいっせいに黄葉しているが、上のほう高いところに楓樹があるらしい。木ずえの部分だけまっかに赤く見える。黄色い雲の一・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
出典:青空文庫