・・・それが、敵に見られん様に、敵の刈り残した高黍畑の中を這う様にして前進し、一方に小山を楯にした川筋へ出た。川は水がなかったんで、その川床にずらりと並んで敵の眼を暗ました。鳥渡でも頸を突き出すと直ぐ敵弾の的になってしまう。昼間はとても出ることが・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・明治の酷吏伝の第一頁を飾るべき時の警視総監三島通庸は遺憾なく鉄腕を発揮して蟻の這う隙間もないまでに厳戒し、帝都の志士論客を小犬を追払うように一掃した。その時最も痛快なる芝居を打って大向うを唸らしたのは学堂尾崎行雄であった。尾崎は重なる逐客の・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・うじゃうじゃと、虫が背中を這うようだった。「ほんまに私は不幸な女やと思いますわ」 朝の陽が蒼黝い女の皮膚に映えて、鼻の両脇の脂肪を温めていた。 ちらとそれを見た途端、なぜだか私はむしろ女があわれに思えた。かりに女が不幸だとしても・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「這うて帰る積り……?」その足ではと停めるのを、「帰れなきゃ野宿するさ。今宮のガード下で……」「へえ……? さては十銭芸者でも買う積りやな」「十銭……? 十銭何だ?」「十銭芸者……。文士のくせに……」知らないのかという。・・・ 織田作之助 「世相」
・・・その日の打ち合わせを書いたほかに、僕は文楽が大好きです、ことに文三の人形はあなたにも是非見せてあげたいなどとあり、そのみみずが這うような文字で書かれた手紙が改めていやになった。それに文三とは誰だろう。そんな人形使いはいない。たぶん文五郎と栄・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・騒ぎがはじまったとたん、登勢はさすがに這うようにして千代とお良を連れて逃げたが、ふと聴えたおいごと刺せという言葉がなぜか耳について離れなかった。 あとで考えれば、それは薄菊石の顔に見覚えのある有馬という士の声らしく、乱暴者を壁に押えつけ・・・ 織田作之助 「螢」
・・・浮世の波に漂うて溺るる人を憐れとみる眼には彼を見出さんこと難かるべし、彼は波の底を這うものなれば。 紀州が小橋をかなたに渡りてより間もなく広辻に来かかりてあたりを見廻すものあり。手には小さき舷燈提げたり。舷燈の光射す口をかなたこなたと転・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ところが早く這うと鉄の寝台で頭を打つ。と云って、あまり這いようがおそいと、再三繰りかえさせられる。あとで、頭にさわってみると、こぶだらけだ。 こういう兵営で二カ年間辛抱しなければならないのかと思うと、うんざりしていた。 私は、内・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・のは、旅行の第一日に於て、既に旅行をいやになるほど満喫し、二日目は、旅費の殆んど全部を失っていることに気がつき、旅の風景を享楽するどころか、まことに俗な、金銭の心配だけで、へとへとになり、旅行も地獄、這うようにして女房の許に帰り、そうして女・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・終戦になって、何が何やら、ただへとへとに疲れて、誇張した言い方をするなら、ほとんど這うようにして栃木県の生家にたどりつき、それから三箇月間も、父母の膝下でただぼんやり癈人みたいな生活をして、そのうちに東京の、学生時代からの文学の友だちで、柳・・・ 太宰治 「女類」
出典:青空文庫