・・・豪雨の一夜、郊外の泥道、這うようにして荻窪の郵便局へたどりついて一刻争う電報たのんだところ、いまはすでに時間外、規定の時を七分すぎて居ります。料金倍額いただきましょう。私はたと困惑、濡れ鼠のすがたのまま、思い設けぬこの恥辱のために満身かっか・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・八月二十八日 晴、驟雨 朝霧が深く地を這う。草刈。百舌が来たが鳴かず。夕方の汽車で帰る頃、雷雨の先端が来た。加藤首相葬儀。八月二十九日 曇、午後雷雨 午前気象台で藤原君の渦や雲の写真を見る。八月三十日 晴・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・苔は湿って蟹が這うている。崖からしみ出る水は美しい羊歯の葉末からしたたって下の岩のくぼみにたまり、余った水はあふれて苔の下をくぐって流れる。小さい竹柄杓が浮いたままにしずくに打たれている。自分は柄杓にかじりつくようにして、う・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ 折から軒を繞る雨の響に和して、いずくよりともなく何物か地を這うて唸り廻るような声が聞える。「ああ、あれで御座います」と婆さんが瞳を据えて小声で云う。なるほど陰気な声である。今夜はここへ寝る事にきめる。 余は例のごとく蒲団の中へ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・一枚の火の、丸形に櫓を裏んで飽き足らず、横に這うてひめがきの胸先にかかる。炎は尺を計って左へ左へと延びる。たまたま一陣の風吹いて、逆に舌先を払えば、左へ行くべき鋒を転じて上に向う。旋る風なれば後ろより不意を襲う事もある。順に撫でてを馳け抜け・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 安岡は這うようにして進んだ。彼の眼をもしその時だれかが見たなら、その人はきっと飛び上がって叫んだであろう。それほど彼は熱に浮かされたような、いわば潜水服の頭についているのと同じ眼をしていた。 そして、その眼は恐るべき情景を見た。・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・まるで這うようなあんばいだ。鼠のようだ。どうだ、弁解のことばがあるか。」 清作はもちろん弁解のことばなどはありませんでしたし、面倒臭くなったら喧嘩してやろうとおもって、いきなり空を向いて咽喉いっぱい、「赤いしゃっぽのカンカラカンのカ・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・ 痛さは納まりそうにないので、体の全力を両足に集めて漸く立ちあがり得た栄蔵は、体を二つに折り曲げたまま、額に深い襞をよせて這う様にして間近い我家にたどりついた。 土間に薪をそろえて居たお節は、この様子を見ると横飛びに栄蔵の傍にかけよ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・地を這う小虫も麗しい五月の 地苔も皆、すぐ 体の囲りでささやかな 生を営むのだ。高く 高く 安定のない魂は寂しい。救われる道がなく寥しい。空は円く高く 地は低く凹凸を持ち人は、頭を程よい空間に保って・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・留置場の時計が永い午後を這うように動いているのなどを眺めていると、焦燥に似た感じが不意に全身をとらえた。これは全然新しい経験なのであった。自分はこのような焦燥を感じさせるところにも、計画的な敵のかけひきを理解した。 六月二十日、自分は一・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫