・・・ 僕はちょっと逡巡した。するとKは打ち切るように彼自身の問に返事をした。「少くとも僕はそんな気がするね。」 僕はそれ以来Kに会うことに多少の不安を感ずるようになった。 芥川竜之介 「彼」
・・・計画がないでもないが、どうも失敗しそうで、逡巡したくなる。アミエルの言ったように、腕だめしに剣を揮ってみるばかりで、一度もそれを実際に使わないようなことになっては、たいへんだと思う。○絶えず必然に、底力強く進歩していかれた夏目先生を思う・・・ 芥川竜之介 「校正後に」
・・・…… 十分ばかり逡巡した後、彼は時計をポケットへ収め、ほとんど喧嘩を吹っかけるように昂然と粟野さんの机の側へ行った。粟野さんは今日も煙草の缶、灰皿、出席簿、万年糊などの整然と並んだ机の前に、パイプの煙を靡かせたまま、悠々とモリス・ルブラ・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・今日でも中産下層階級の子弟は何か買いものをするたびにやはり一円持っているものの、一円をすっかり使うことに逡巡してはいないであろうか? 四二 虚栄心 ある冬に近い日の暮れ、僕は元町通りを歩きながら、突然往来の人々が全然・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・小児等しばらく逡巡す。画工の機嫌よげなるを見るより、一人は、画工の背を抱いて、凧を煽る真似す。一人は駈出して距離を取る。その一人。小児三 やあ、大凧だい、一人じゃ重い。小児四 うん、手伝ってやら。――風吹け、や、吹け。山・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ が、赤旗を捲いて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡の体して、「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」 と口の裡で呟いた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。 垣も、隔ても、跡はないが、倒れた石燈籠の大なのがあ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・― が、さて、一昨年のその時は、翌日、半日、いや、午後三時頃まで、用もないのに、女中たちの蔭で怪む気勢のするのが思い取られるまで、腕組が、肘枕で、やがて夜具を引被ってまで且つ思い、且つ悩み、幾度か逡巡した最後に、旅館をふらふらとなって、・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・これがために、紫玉は手を掛けた懐紙を、余儀なくちょっと逡巡った。 同時に、あらぬ方に蒼と面を背けた。 六 紫玉は待兼ねたように懐紙を重ねて、伯爵、を清めながら、森の径へ行きましたか、坊主は、と訊いた。父も娘も・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 停車場の人ごみの中で、だしぬけに大声でぶッつけられたので、学士はその時少なからず逡巡しつつ、黙って二つばかり点頭いた。「旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを一品下んせね。鼻紙でも、手巾でも、よ。」 教授は外套・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・井侯薨去当時、故侯の欧化政策は滑稽の思出草となったが、あらゆる旧物を破壊して根底から新文明を創造しようとした井侯の徹底的政策の小気味よさは事毎に八方へ気兼して※咀逡巡する今の政治家には見られない。例えば先祖から持ち伝えた山を拓いて新らしい果・・・ 内田魯庵 「四十年前」
出典:青空文庫