・・・とはすでに時代後れの話である。今日チェルシーに来て倫敦の方を見るのは家の中に坐って家の方を見ると同じ理窟で、自分の眼で自分の見当を眺めると云うのと大した差違はない。しかしカーライルは自ら倫敦に住んでいるとは思わなかったのである。彼は田舎に閑・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・吉里は一番後れて、階段を踏むのも危険いほど力なさそうに見えた。「吉里さん、吉里さん」と、小万が呼び立てた時は、平田も西宮ももう土間に下りていた。吉里は足が縮んだようで、上り框までは行かれなかッた。「吉里さん、ちょいと、ちょいと」と、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・だから人が文学や哲学を難有がるのは余程後れていやせんかと考えられる。第一其等が有難いと云うな、偽の有難いんだ。何となれば、文学哲学の価値を一旦根底から疑って掛らんけりゃ、真の価値は解らんじゃないか。ところが日本の文学の発達を考えて見るに果し・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・この船は我船より後れて馬関へはいったのである。殊に第二軍司令部附であった記者は、大山大将が一処に帰ろといわれたのを聴かずに先へ帰って来て実にいまいましい訳だ、と悔んで居た。乗合一同皆思案にくれて居る中、午後四時頃になって一道の光明は忽ち暗中・・・ 正岡子規 「病」
・・・ 次の朝、授業の前みんなが運動場で鉄棒にぶらさがったり、棒かくしをしたりしていますと、少し遅れて佐太郎が何かを入れた笊をそっとかかえてやって来ました。「なんだ、なんだ。なんだ。」とすぐみんな走って行ってのぞき込みました。 す・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・これは考え深いことばのようであるけれども、実際は日本の社会全体の遅れをそのまま肯定し、女の人が才能をひしがれて一生を送らなければならない社会機構そのものを肯定したことではないだろうか。憲法と民法とが条文の上で男女平等といっているその実際の条・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・次にここに補って置きたいのは、翻訳のみに従事していた思軒と、後れて製作を出した魯庵とだ。漢詩和歌の擬古の裡に新機軸を出したものは姑く言わぬ。凡そ此等の人々は、皆多少今の文壇の創建に先だって、生埋の運命に迫られたものだ。それは丁度雑りものの賤・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・それは自分が後れたと云うことである。リンツマンの檀那はもう疾っくに金を製造所へ持って往って、職人に払ってしまっている。おまけに虚の財布を持って町へ帰っているのである。実に骨牌と云うものはとんだ悪い物である。あれをしていると、大切な事を忘れて・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ただし物語に紛れて遅れては面目なかろう。翌日ごろはいずれも決めて鎌倉へいでましなさろうに……後れては……」「それもそうじゃ,そうでおじゃる。さらば物語は後になされよ。とにかくこの敗軍の体を見ればいとど心も引き立つわ」「引き立つわ、引・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ お霜は遅れた一羽の鶏を片足で追いつつ大根を抱えて藁小屋の裏から現れた。「また来たんか?」「また厄介になったんや、すまんが頼むぞな。ええチャボやな。こいつなら大分大っきな卵を産みよるやろ?」「勘はな?」「さア、今そこにう・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫