・・・作者は此の景を叙するに先だって作中の人物が福地桜痴の邸前を過ぎることを語っている。桜痴居士の邸は下谷茅町三丁目十六番地に在ったのだ。 当時居士は東京日日新聞の紙上に其の所謂「吾曹」の政論を掲げて一代の指導者たらんとしたのである。又狭斜の・・・ 永井荷風 「上野」
・・・又あるときは頭よりただ一枚と思わるる真白の上衣被りて、眼口も手足も確と分ちかねたるが、けたたましげに鉦打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これは癩をやむ人の前世の業を自ら世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。 旅商人の・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ 人数に比べて部屋の数が多過ぎるので、寄宿舎は階上を自習室にあて、階下を寝室にあててあった。どちらも二十畳ほど敷ける木造西洋風に造ってあって、二人では、少々淋しすぎた。が、深谷も安岡も、それを口に出して訴えるのには血気盛んに過ぎた。・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・太股ふッつりのお身替りなざア、ちとありがた過ぎる方だぜ。この上臂突きにされて、ぐりぐりでも極められりゃア、世話アねえ。復讐がこわいから、覚えてるがいい」「だッて、あんまり憎らしいんだもの」と、吉里は平田を見て、「平田さん、お前さんよく今・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・競争者が多過ぎるのだ。お得意の方で、もう追っ附かなくなっている。おれなんぞはいろんな事をやってみた。恥かしくて人に手を出すことの出来ない奴の真似をして、上等の料理屋や旨い物店の硝子窓の外に立っていたこともある。駄目だ。中にいる奴は、そんな事・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・桟橋の句が落ちつかぬのは余り淡泊過ぎるのだから、今少し彩色を入れたら善かろうと思うて、男と女と桟橋で別を惜む処を考えた。女は男にくっついて立って居る。黙って一語を発せぬ胸の内には言うに言われぬ苦みがあるらしい。男も悄然として居る。人知れず力・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・一人がその青い粘土も持って来たのでしたが、蹄の痕があんまり深過ぎるので、どうもうまくいきませんでした。私は「あした石膏を用意して来よう」とも云いました。けれどもそれよりいちばんいいことはやっぱりその足あとを切り取って、そのまま学校へ持って行・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・それ等を、わが胸で痛感する者は、決して未だ多過ぎることは無いのである。 近頃、漸々一体の注意を呼び始めた、ロシアの大飢饉と云うことに対しても、真の意味で、友誼的であるべき諸邦の愛が、私は、余り鈍っていると思う。 確に或る国は率先して・・・ 宮本百合子 「アワァビット」
・・・一体天台一万八千丈とは、いつ誰が測量したにしても、所詮高過ぎるようだが、とにかく虎のいる山である。道はなかなかきのうのようには捗らない。途中で午飯を食って、日が西に傾きかかったころ、国清寺の三門に着いた。智者大師の滅後に、隋の煬帝が立てたと・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
出典:青空文庫