・・・しては貴賎・貧富も善悪・邪正も知愚・賢不肖も平等一如である、何者の知恵も遁がれ得ぬ、何者の威力も抗することは出来ぬ、若し如何にかして其を遁がれよう、其れに抗しように企つる者あらば、其は畢竟愚癡の至りに過ぎぬ。只だ是れ東海に不死の薬を求め、バ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・おかみさんはチョッとこっちを振りかえったが、勿論あれ程見知っている俺が、こんな自動車に乗っていようなぞという事には気付く筈もなく――過ぎてしまった。俺は首を窮屈にまげて、しばらくの間うしろの窓から振りかえっていた。「もう直ぐだ、あそこの・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・りも一段あがりて村様村様と楽な座敷をいとしがられしが八幡鐘を現今のように合乗り膝枕を色よしとする通町辺の若旦那に真似のならぬ寛濶と極随俊雄へ打ち込んだは歳二ツ上の冬吉なりおよそここらの恋と言うは親密が過ぎてはいっそ調わぬが例なれど舟を橋際に・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・わたしの家の庭で見せたいものは、と言ったところで、ほんとに猫の額ほどしかないような狭いところに僅かの草木があるに過ぎないが、でもこの支那の蘭の花のさかりだけは見せたい。薫は、春咲く蘭に対して、秋蘭と呼んで見てもいいもので、かれが長い冬季の霜・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・道理だと思う部分も、結局は半面の道理たるに過ぎないから、矛盾した他の半面も同じように真理だと思う。こういう次第で心内には一も確固不動の根柢が生じない。不平もある、反抗もある、冷笑もある、疑惑もある、絶望もある。それでなお思いきってこれを蹂躙・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・「あの、今日は午過ぎから、みんなで大根を引きに行ったんですの」「どの畠へ出てるんですか。――私ちょっと行ってみましょう」「いいえ、もうただ今お長をやりましたから大騒ぎをして帰っていらっしゃいますわ」「さっき私は誰もいないのだ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・「昼過ぎになったら、太陽を拝みにつれて行ってあげますからね」 そう言えばここは、この島の海岸の高いがけの間にあって暗い所でした。おまけに住宅は松の木陰になっていて、海さえ見えぬほどふさがっていました。「それからたくさんおもちゃを・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
徳富猪一郎君は肥後熊本の人なり。さきに政党の諸道に勃興するや、君、東都にありて、名士の間を往来す。一日余の廬を過ぎ、大いに時事を論じ、痛歎して去る。当時余ひそかに君の気象を喜ぶ。しかるにいまだその文筆あるを覚らざるなり。・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・構えのうちにある小屋でも稲叢でも、皆川を過ぎて行く船頭の処から見えました。此、金持らしい有様の中で、仕事がすむとそおっと川の汀に出かけ、其処に座る、一人の小さい娘のいるのに、気が附いた者があったでしょうか? 私は知りません。けれども、此処で・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・私はそれこそ一村童に過ぎなかったのだけれども、兄たちの文学書はこっそり全部読破していたし、また兄たちの議論を聞いて、それはちがう、など口に出しては言わなかったが腹の中でひそかに思っていた事もあった。そうして、中学校にはいる頃には、つまり私は・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫