・・・すると、米屋の丁稚が一人、それを遺恨に思って、暮方その職人の外へ出る所を待伏せて、いきなり鉤を向うの肩へ打ちこんだと云うじゃありませんか。それも「主人の讐、思い知れ」と云いながら、やったのだそうです。……」 藤左衛門は、手真似をしながら・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・これは折角の火炙りも何も、見そこなった遺恨だったかも知れない。さらにまた伝うる所によれば、悪魔はその時大歓喜のあまり、大きい書物に化けながら、夜中刑場に飛んでいたと云う。これもそう無性に喜ぶほど、悪魔の成功だったかどうか、作者は甚だ懐疑的で・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・のみならず新聞のゴシップによると、その代議士は数年以前、動物園を見物中、猿に尿をかけられたことを遺恨に思っていたそうである。 お伽噺しか知らない読者は、悲しい蟹の運命に同情の涙を落すかも知れない。しかし蟹の死は当然である。それを気の毒に・・・ 芥川竜之介 「猿蟹合戦」
・・・いえ、優しい気立でございますから、遺恨なぞ受ける筈はございません。 娘でございますか? 娘の名は真砂、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。顔は色・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・ 余り唐突な狼藉ですから、何かその縁組について、私のために、意趣遺恨でもお受けになるような前事が有るかとお思われになっては、なおこの上にも身の置き処がありませんから――」 七「実に、寸毫といえども意趣遺恨はあ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ナニ此の木沢左京が主家を思い敵を悪む心、貴殿に分寸もおくれ居ろうか、無念骨髄に徹して遺恨已み難ければこそ、此の企も人先きに起したれ。それを利害損得を知らぬとて、奇怪にまで思わるるとナ。それこそ却って奇怪至極。貴殿一人が悪いではないが、エーイ・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・夜となく日となく磨きに磨く刃の冴は、人を屠る遺恨の刃を磨くのである。君の為め国の為めなる美しき名を藉りて、毫釐の争に千里の恨を報ぜんとする心からである。正義と云い人道と云うは朝嵐に翻がえす旗にのみ染め出すべき文字で、繰り出す槍の穂先には瞋恚・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・十四世紀の後半にエドワード三世の建立にかかるこの三層塔の一階室に入るものはその入るの瞬間において、百代の遺恨を結晶したる無数の紀念を周囲の壁上に認むるであろう。すべての怨、すべての憤、すべての憂と悲みとはこの怨、この憤、この憂と悲の極端より・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・なれすぎた鮓をあるじの遺恨かな牡丹ある寺行き過ぎし恨かな葛を得て清水に遠き恨かな「恨かな」というも漢詩より来たりしものならん。句調 蕪村以前の俳句は五七五の句切にて意味も切れたるが多し。たまたま変例と・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・と申す古歌に本づき、銘を初音とつけたり、かほどの品を求め帰り候事天晴なり、ただし討たれ候横田清兵衛が子孫遺恨を含みいては相成らずと仰せられ候。かくて直ちに清兵衛が嫡子を召され、御前において盃を申付けられ、某は彼者と互に意趣を存ずまじき旨誓言・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
出典:青空文庫