・・・ 空は打ち返したる綿を厚く敷けるが如く重い。流を挟む左右の柳は、一本ごとに緑りをこめて濛々と烟る。娑婆と冥府の界に立ちて迷える人のあらば、その人の霊を並べたるがこの気色である。画に似たる少女の、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るの・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・然るに幸か不幸か私は重いチブスに罹って一年程学校を休んだ。その中、追々世の中のことも分かるようになったので、私は師範学校をやめて専門学校に入った。専門学校が第四高等中学校と改まると共に、四高の学生となったのである。四高では私にも将来の専門を・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・ 人を救うためにはが唯一の手段じゃないか、自分の力で捧げ切れない重い物を持ち上げて、再び落した時はそれが愈々壊れることになるのではないか。 だが、何でもかでも、私は遂々女から、十言許り聞くような運命になった。 四 ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・何にしろ相手があるのだから責任が重いように思われて張合があった。判者が外の人であったら、初から、かぐや姫とつれだって月宮に昇るとか、あるいは人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居たというような、凄い趣向を考・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・ 二人は早く重い岩石の袋をおろしたさにあとはだまって県道を北へ下った。 道の左には地図にある通りの細い沖積地が青金の鉱山を通って来る川に沿って青くけむった稲を載せて北へ続いていた。山の上では薄明穹の頂が水色に光った。俄かに斉田が立ち・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・まわりには何となく重い気分がにじんで居る。若い男は自分の老いた時の事を、老いた人達は自分の若かったことを思って居る。三人ともだまったまんま木の間を行ったり来たりするうちに一番川に近い方に居る第二の精霊がとっぴょうしもない調子で叫ぶ。・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬を飲む人も、病気が死活問題になっている人も、均しくこれ casus である。Casus として取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房はそういう境界には到らずにし・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・郵便脚夫は灸の姉の所へ重い良人の手紙を投げ込んだ。 夕暮れになると、またいつものように点燈夫が灸の家の門へ来た。献燈には新らしい油が注ぎ込まれた。梨の花は濡れ光った葉の中で白々と咲いていた。そして、点燈夫は黙って次の家の方へ去っていった・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・透明を示すため横線を並べた湯の描き方も、滑らかに重い温泉の感じを消している。それに湯に浸った女の顔が全体の気分と調和しない。あの首を前へ垂れた格好も、少し無理である。 しかし立場を換えてこの画に対すると、非難はこれだけではすまない。なる・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫