・・・ 十五 中庭の土に埋め込んだ水甕に金魚を飼っている。Sがたんせいして世話したおかげで無事に三冬を越したのが三尾いた。毎朝廊下を通る人影を見ると三尾喙を並べてこっちを向いて餌をねだった。時おりのら猫がねらいに来るの・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・これは近ごろ来朝したエシオピアの大使が、ライオンを見て珍しがらずに、金魚を見て驚いた話ともどこか似たところのある話である。また日本の浮世絵芸術が外国人に発見されて後に本国でも認められるようになった話ともやはり似ていて、はなはだ心細い次第であ・・・ 寺田寅彦 「ラジオ・モンタージュ」
・・・よく見る町の理髪師が水鉢に金魚を飼ったり、提燈屋が箱庭をつくって店先へ飾ったりするような趣味を、この爺さんも持っていたらしい。爺さんはその言葉遣いや様子合から下町に生れ育ったことを知らしていた。それにしても、わたくしは一度もこの爺さんの笑っ・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・家の主人が石菖や金魚の水鉢を縁側に置いて楽しむのも大抵はこの手水鉢の近くである。宿の妻が虫籠や風鈴を吊すのもやはり便所の戸口近くである。草双紙の表紙や見返しの意匠なぞには、便所の戸と掛手拭と手水鉢とが、如何に多く使用されているか分らない。か・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入る事ができなくなったのかと思うと、なお更にもう一度あの悪戯書で塗り尽された部屋の壁、その窓下へ掘った金魚の池なぞあらゆる稚時の古跡が尋ねて見・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・「旦那は表の金魚売を御覧なすったか」 自分は見ないと云った。白い男はそれぎりで、しきりと鋏を鳴らしていた。すると突然大きな声で危険と云ったものがある。はっと眼を開けると、白い男の袖の下に自転車の輪が見えた。人力の梶棒が見えた。と思う・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ブリキの子供用のバケツと金魚が忘れられたようにころがってある。温泉の水口はとめられていて、乾あがった湯槽には西日がさしこみ、楢の落葉などが散っていた。白樺の細い丸木を組んだ小橋が、藪柑子の赤い溝流れの上にかかったりしていたところからそこへ入・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・ つれに振向いて耳打ちし先へやって、彼等は章子達と近所の金魚屋へ入った。入口は植木屋のようで、短いだらだら坂を数歩下ると開いた地面がある。支那鉢や普通の木の箱があって、いろんな種類の金魚が泳いでいた。或る箱の葭簀の下では支那らんちゅうの・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・そこを歩いている日本の若い女性たちは、目に入りきらないほどの色彩や、現実の自分の生活の内容には一つもじっくり入りこんでいない情景を、グラスのなかの金魚を外から眺めるように眺めて、時間のたつのも忘れ、わずか一杯のあったかいもので楽しもうとする・・・ 宮本百合子 「自覚について」
・・・やや古びた八畳大きな机や 水鉢の金魚貴方は白い浴衣を着今は書籍の前に今は 縁に又は水を打った庭樹の面をいかにも東洋人の安易さを以てひっそりと打眺めて居られるでしょう。遠く離れ心では 又と会うまいと・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
出典:青空文庫