・・・ いつであったか、銀座資生堂楼上ではじめて山崎斌氏の草木染めの織物を見たときになぜか涙の出そうなほどなつかしい気がした。そのなつかしさの中にはおそらく自分の子供の時分のこうした体験の追憶が無意識に活動していたものと思われる。またことしの・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・ もう一つ、自分の学生時代に世話になった銀座のある商店の養子になっていた人から聞いた話によると、その実家というのが牛込の喜久井町で、そのすぐ裏隣りとかに夏目という家があった、幼い時のことだから、その夏目家の人については何の記憶もないがそ・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・ 戦争中にも銀座千疋屋の店頭には時節に従って花のある盆栽が並べられた。また年末には夜店に梅の鉢物が並べられ、市中諸処の縁日にも必ず植木屋が出ていた。これを見て或人はわたしの説を駁して、現代の人が祖国の花木に対して冷淡になっているはずはな・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
この一、二年何のかのと銀座界隈を通る事が多くなった。知らず知らず自分は銀座近辺の種々なる方面の観察者になっていたのである。 唯不幸にして自分は現代の政治家と交らなかったためまだ一度もあの貸座敷然たる松本楼に登る機会がなかったが、し・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・さっきから一心に跡けて来た巨きな、蟇の形の足あとはなるほどずうっと大学士の足もとまでつづいていてそれから先ももっと続くらしかったがも一つ、どうだ、大学士の銀座でこさえた長靴のあともぞろっとついていた。「こ・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
この間さがさなければならない本があって銀座の紀伊国屋へよったらば、欲しいものはなかったかわり、思いがけずパウル・ヴォルフの傑作写真集が飾窓に出ているのに気がついた。もうかえろうとして飾窓をふりかえったら、そこにある。見たく・・・ 宮本百合子 「ヴォルフの世界」
十一月のお祭りのうちのある午後、用事で銀座へ出かけていたうちの者が、帰って来て、きょうは珍しいものを見たの、といった。浦和の方から、女子青年の娘さんたちが久留米絣の揃いの服装、もんぺに鉢巻姿で自転車にのって銀座どおりを行進・・・ 宮本百合子 「女の行進」
・・・「ええ。一しょに愛宕山に泊まっているの」「よく放して出すなあ」「伴奏させるのは歌だけなの」Begleiten ということばを使ったのである。伴奏ともなれば同行ともなる。「銀座であなたにお目にかかったといったら、是非お目にかかりたいと・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・六、七年前銀座裏で食事をして外へ出たとき、痛切にシンガポールの場末を思い出したことがある。往来から夜の空の見える具合がそういう連想を呼び起こしたのかと思われるが、その時には新しく建設せられる東京がいかにも植民地的であるのを情けなく思った。し・・・ 和辻哲郎 「城」
・・・の底に悲哀が包まれたるは何の意味であるか。銀座の通りを行く。数十百の電車は石火の一刹那に駛せ違う。数百千の男女はエジプトの野を覆うという蝗の群れのように動いている。貴公は何ゆえに歩いてるかと問うと用事があるからだと言う、何ゆえに用事があるか・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫