・・・昔は蔵前の札差とか諸大名の御金御用とかあるいはまたは長袖とかが、楽しみに使ったものだそうだが、今では、これを使う人も数えるほどしかないらしい。 当日、僕は車で、その催しがある日暮里のある人の別荘へ行った。二月の末のある曇った日の夕方であ・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・と喚くと、一子時丸の襟首を、長袖のまま引掴み、壇を倒に引落し、ずるずると広前を、石の大鉢の許に掴み去って、いきなり衣帯を剥いで裸にすると、天窓から柄杓で浴びせた。「塩を持て、塩を持て。」 塩どころじゃない、百日紅の樹を前にした、社務・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 然るに六十何人の大家族を抱えた榎本は、表面は贅沢に暮していても内証は苦しかったと見え、その頃は長袖から町家へ縁組する例は滅多になかったが、家柄よりは身代を見込んで笑名に札が落ちた。商売運の目出たい笑名は女運にも果報があって、老の漸く来・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 断り無しに持って来た荷物を売りはらった金で、人力車を一台購い、長袖の法被に長股引、黒い饅頭笠といういでたちで、南地溝の側の俥夫の溜り場へのこのこ現われると、そこは朦朧俥夫の巣で、たちまち丹造の眼はひかり、彼等の気風に染まるのに何の造作・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・代りには、これをして断じて政事に関するを得せしめず、如何なる場合においても、学校教育の事務に関する者をして、かねて政事の権をとらしむるが如きは、ほとんどこれを禁制として、政権より見れば、学者はいわゆる長袖の身分たらんこと、これまた我が輩の祈・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・常珍らなるかかる夜は燿郷の十二宮眼くるめく月の宮瑠璃の階 八尋どの玉のわたどの踏みならし打ち連れ舞わん桂乙女うまし眉高く やさめの輝き長袖花をあざむけば天馳つかい喜び誦し山祇もみずとりだまもと・・・ 宮本百合子 「秋の夜」
・・・今の女学校の上級生の晴れやかな稚さ、青春の門口のたっぷりした長さと思い合わせると、本当に不思議な気もちがする。長袖の紫矢がすりに袴をはき前髪をふくらませた長い下げ髪をたらし、手入れのよい靴をはいた十八九の娘たちは、一目みて育ちのよさがわかる・・・ 宮本百合子 「女の学校」
出典:青空文庫