・・・……霜月末の風の夜や……破蒲団の置炬燵に、歯の抜けた頤を埋め、この奥に目あり霞めり。――徒らに鼻が隆く目の窪んだ処から、まだ娑婆気のある頃は、暖簾にも看板にもとかいて、煎餅を焼いて売りもした。「目あり煎餅」勝負事をするものの禁厭になると、一・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・鹿落の方角です、察しられますわ。霜月でした――夜汽車はすいていますし、突伏してでもいれば、誰にも顔は見られませんの。 温泉宿でも、夜汽車でついて、すぐ、その夜半だったんですって。――どこでもいうことでしょうかしら? 三つ並んだはばかりの・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ この、筆者の友、境賛吉は、実は蔦かずら木曾の桟橋、寝覚の床などを見物のつもりで、上松までの切符を持っていた。霜月の半ばであった。「……しかも、その(蕎麦二膳には不思議な縁がありましたよ……」 と、境が話した。 昨夜は松本で・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・お増も今年きりで下ったとの話でいよいよ話相手もないから、また元日一日で二日の日に出掛けようとすると、母がお前にも言うて置くが民子は嫁に往った、去年の霜月やはり市川の内で、大変裕福な家だそうだ、と簡単にいうのであった。僕ははアそうですかと無造・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・彼の坊さんは草の枯れた広野を分けて衣の裾を高くはしょり霜月の十八日の夜の道を宵なので月もなく推量してたどって行くと脇道から人の足音がかるくたちどまったかと思うと大男が槍のさやをはらってとびかかるのをびっくりして逃げる時にふりかえって見ると最・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・ 村の年寄りが、山の小さい桐の樹を一本伐られたといって目に角立てゝ盗んだ者をせんさくしてまわったり、霜月の大師詣りを、大切な行かねばならぬことのようにして詣るのをいゝ年をしてまるで子供のようにと思って眺めていたが、私にも年寄りの気持がい・・・ 黒島伝治 「四季とその折々」
・・・した子供によくある熱に浮されて苦しみながら、ひるの中は頻りに寐反りを打って、シクシク泣ていたのが、夜に入ってから少しウツウツしたと思って、フト眼を覚すと、僕の枕元近く奥さまが来ていらっしゃって、折ふし霜月の雨のビショビショ降る夜を侵していら・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫