・・・ しかし、そうは云うものの、李も、すべての東洋人のように、運命の前には、比較的屈従を意としていない。風雪の一日を、客舎の一室で、暮らす時に、彼は、よく空腹をかかえながら、五匹の鼠に向って、こんな事を云った。「辛抱しろよ。己だって、腹がへ・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・ 帰りは風雪になっていました。二人は毛布の中で抱き合わんばかりにして、サクサクと積もる雪を踏みながら、私はほとんど夢ごこちになって寒さも忘れ、木村とはろくろく口もきかずに帰りました。帰ってどうしたか、聖書でも読んだか、賛美歌でも歌ったか・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・濡縁の外は落葉松の垣だ。風雪の為に、垣も大分破損んだ。毎年聞える寂しい蛙の声が復た水車小屋の方からその障子のところへ伝わって来た。 北の縁側へ出て見た。腐りかけた草屋根の軒に近く、毎年虫に食われて弱って行く林檎の幹が高瀬の眼に映った。短・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・昨年の冬は、満州の野に降りしきる風雪をこのガラス窓から眺めて、その士官はウォツカを飲んだ。毛皮の防寒服を着て、戸外に兵士が立っていた。日本兵のなすに足らざるを言って、虹のごとき気焔を吐いた。その室に、今、垂死の兵士の叫喚が響き渡る。 「・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。 風雪というものを知らない国があったとする、年中気温が摂氏二十五度を下がる事がなかったとする。そ・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
・・・オペラは欧洲の本土に在っては風雪最凛冽なる冬季にのみ興行せられるのが例である。それ故わたくしの西洋音楽を聴いて直に想い起すものは、深夜の燈火に照された雪中街衢の光景であった。 然るに当夜観客の邦人中には市中の旅館に宿泊して居る人ででもあ・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・そのうちある晩風雪になって、雨戸の外では風の音がひゅうひゅうとして、庭に植えてある竹がおりおり箒で掃くように戸を摩る。十時頃に下女が茶を入れて持って来て、どうもひどい晩でございますねというような事を言って、暫くもじもじしていた。宮沢は自分が・・・ 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫