・・・ 保吉はやむを得ず風中や如丹と、食物の事などを話し合った。しかし話ははずまなかった。この肥った客の出現以来、我々三人の心もちに、妙な狂いの出来た事は、どうにも仕方のない事実だった。 客は註文のフライが来ると、正宗の罎を取り上げた。そ・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・荒物屋を兼ねた居酒屋らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声がもれる外には、真直な家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって、電信柱だけが、けうとい唸りを立てていた。彼れと馬と妻とは前の通りに押黙って歩いた。歩いては時折り思い出したよう・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ この犬は年来主人がなくて饑渇に馴れて居るので、今食物を貰うようになっても余り多くは喰べない。しかしその少しの食物が犬の様子を大相に変えた。今までは処々に捩れて垂れて居て、泥などで汚れて居た毛が綺麗になって、玻璃のように光って来た。この・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・女より食物だね。好きな物を食ってさえいれあ僕には不平はない。A 殊勝な事を言う。それでは今度の下宿はうまい物を食わせるのか。B 三度三度うまい物ばかり食わせる下宿が何処にあるもんか。A 安下宿ばかりころがり歩いた癖に。B 皮・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・奥州筋近来の凶作にこの寺も大破に及び、住持となりても食物乏しければ僧も不住、明寺となり、本尊だに何方へ取納めしにや寺には見えず、庭は草深く、誠に狐梟のすみかというも余あり。この寺中に又一ツの小堂あり。俗に甲冑堂という。堂の書附には故将堂とあ・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・その盲進が戦争の滋養物である様に、君の現在では、家族の饑が君の食物ではないか。人間は皆苦しみに追われて活動しているのだ。」「そう云われると、そうに違いないのやろけど」と、友人は微笑しながら、「まア、もッとお飲み。」傾けた徳利の酒が不足で・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・家の惣菜なら不味くても好いが、余所へ喰べに行くのは贅沢だから選択みをするのが当然であるというのが緑雨の食物哲学であった。その頃は電車のなかった時代だから、緑雨はお抱えの俥が毎次でも待ってるから宜いとしても、こっちはわざわざ高い宿俥で遠方まで・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・渡された食物に手を付けなかったり、また無理に食わせられてはならぬと思って、人の見る前では呑み込んで、直ぐそれを吐き出したこともあったらしい。丁度相手の女学生が、頸の創から血を出して萎びて死んだように女房も絶食して、次第に体を萎びさせて死んだ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・「五日分の食物を用意していったそうです。」「そうすれば、あと二日しかないはずだ。」「それまでに帰ってくるでしょうか。」「なんともいえませんが、神に祈って待たなければなりません。」 みんなは、気づかわしげに、沖の方を見なが・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・辞も何にも分らねえ髭ムクチャの土人の中で、食物もろくろく与われなかった時にゃ、こうして日本へ帰って無事にお光さんに逢おうとは、全く夢にも思わなかったよ」「そうだろうともねえ、察しるよ! 私も――縁起でもないけど――何しろお前さんの便りは・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫