・・・吾妻橋から川下ならば、駒形、並木、蔵前、代地、柳橋、あるいは多田の薬師前、うめ堀、横網の川岸――どこでもよい。これらの町々を通る人の耳には、日をうけた土蔵の白壁と白壁との間から、格子戸づくりの薄暗い家と家との間から、あるいは銀茶色の芽をふい・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・この時もう我々の猪牙舟は、元の御厩橋の下をくぐりぬけて、かすかな舟脚を夜の水に残しながら、彼是駒形の並木近くへさしかかっていたのです。その中にまた三浦が、沈んだ声で云いますには、『が、僕はまだ妻の誠実を疑わなかった。だから僕の心もちが妻に通・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・「駒形の、何とか云う一中の師匠――紫蝶ですか――あの女と出来たのもあの頃ですぜ。」と小川の旦那も口を出した。 房さんの噂はそれからそれへと暫くの間つづいたが、やがて柳橋の老妓の「道成寺」がはじまると共に、座敷はまたもとのように静かに・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・ で、そこまで行くと、途中は厩橋、蔵前でも、駒形でも下りないで、きっと雷門まで、一緒に行くように信じられた。 何だろう、髪のかかりが芸者でない。が、爪はずれが堅気と見えぬ。――何だろう。 とそんな事。……中に人の数を夾んだばかり・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・「でも秋らしくなりましたね。駒形の家を思出しますね」 と弟は言った。駒形の家とは、おげんの亡くなった伜が娵と一緒にしばらく住んだ家で、おげんに取っても思出の深いところであった。「どうかすると私はまだ船にでも揺られているような気の・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・笑って歩いていると、Y、一人ずんずん駒形通りへ曲りそうに歩いて行く。私までおやと思った。「あすこから乗るんじゃあなかったんですか」「――そうだと思っていたの……」 Yは大きな看板を上げているツウリングのガレージが目的であったのだ・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
出典:青空文庫