・・・その鮮やかな色の傍には掛茶屋めいた家があって、縁台の上に枝豆の殻を干したまま積んであった。木槿かと思われる真白な花もここかしこに見られた。 やがて車夫が梶棒を下した。暗い幌の中を出ると、高い石段の上に萱葺の山門が見えた。Oは石段を上る前・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・床の上を見るとその滴りの痕が鮮やかな紅いの紋を不規則に連ねる。十六世紀の血がにじみ出したと思う。壁の奥の方から唸り声さえ聞える。唸り声がだんだんと近くなるとそれが夜を洩るる凄い歌と変化する。ここは地面の下に通ずる穴倉でその内には人が二人いる・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・それらの夢の景色の中では、すべての色彩が鮮やかな原色をして、海も、空も、硝子のように透明な真青だった。醒めての後にも、私はそのヴィジョンを記憶しており、しばしば現実の世界の中で、異様の錯覚を起したりした。 薬物によるこうした旅行は、だが・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 後年光琳の流れのなかで定式のようになった松の翠の笠のような形に重ねられる手法、画面の中央を悠々とうねり流れている厚い白い水の曲折、鮮やかな緑青で、全く様式化されながらどっしりと、とどこおるもののない量感で据えられた山の姿、それらは、宗・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
・・・そして、行儀よく坐り、真面目な面持ちで鮮やかに其等を皆食べて仕舞うのであった。「仕様がないじゃあないか、あれでは」 到頭、彼が言葉に出した。「置けまい?」「――だけれど、もう三十日よ」 さほ子は、良人の顔を見た。彼は目を・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・唇はほほえみ、つぶった双眼の縁は、溶きもしない鮮やかな草色に近い青緑色で、くっきりの西洋絵具を塗ったように隈どられて居る。 見まい、見まいとしても顔の見える恐ろしさに、私は激しい叫び声を立てて一散に逃げようとした。狭いところを抜けようと・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・つまり友達としては向上心もあり、感受性も活溌で、幾らかはスポーティな、いってみれば手ごたえの鮮やかな女性を好む若い男たちが、いざ結婚のあいてを選ぶとなると案外そのようなタイプとは逆の、いわゆる家庭的と総称されて来ている娘たちの方を妻として安・・・ 宮本百合子 「異性の友情」
・・・心理は鋭く、描写はカリカチュアに近いほど鮮やかである。しかも彼の心理観察の周密は常に描写のカリカチュアに堕するのを救う。従って彼の描写は簡素の限度だと言う事もできる。 ストリンドベルヒの頭は恐ろしくよい。ゾラの頭はきわめて平凡である。・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・ちょうど無色透明で歪みのない窓ガラスが外の景色を最も鮮やかに見せてくれるように、表現の透明さは作者の現わそうとするものを最も鮮明に見せてくれる。また透明であればあるほどそこにガラスのあることが気づかれないと同様に、透明な表現もその表現の苦心・・・ 和辻哲郎 「歌集『涌井』を読む」
・・・トルストイの確か『戦争と平和』だったかにそういう意味で茸狩りの非常に鮮やかな描写があったと思う。 自分は山近い農村で育ったので、秋には茸狩りが最上の楽しみであった。何歳のころからそれを始めたかは全然記憶がないが、小学校へはいるよりも以前・・・ 和辻哲郎 「茸狩り」
出典:青空文庫