・・・「鶏卵と、玉子と、字にかくとおんなじというめくらだけれど、おさらいの看板ぐらいは形でわかりますからね、叱られやしないと多寡をくくって、ふらふらと入って来ましたがね。おさらいや、おおさえや、そんなものは三番叟だって、どこにも、やってやしま・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・―― またその手で、硝子杯の白雪に、鶏卵の蛋黄を溶かしたのを、甘露を灌ぐように飲まされました。 ために私は蘇返りました。「冷水を下さい。」 もう、それが末期だと思って、水を飲んだ時だったのです。 脚気を煩って、衝心をしか・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ それでいてあがるものはというと、牛乳を少しと、鶏卵ばかり。熱が酷うござんすから舌が乾くッて、とおし、水で濡しているんですよ。もうほんとうにあわれなくらいおやせなすって、菊の露でも吸わせてあげたいほど、小さく美しくおなりだけれど、ねえ、・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ 小さな鶏卵の、軽く角を取って扁めて、薄漆を掛けたような、艶やかな堅い実である。 すかすと、きめに、うすもみじの影が映る。 私はいつまでも持っている。 手箪笥の抽斗深く、時々思出して手に据えると、殻の裡で、優しい音がする・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・ 引続いては兵隊饅頭、鶏卵入の滋養麺麭。……かるめら焼のお婆さんは、小さな店に鍋一つ、七つ五つ、孫の数ほど、ちょんぼりと並べて寂しい。 茶めし餡掛、一品料理、一番高い中空の赤行燈は、牛鍋の看板で、一山三銭二銭に鬻ぐ。蜜柑、林檎の水菓・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・たとえば、私が荻窪の下宿にいたとき、近くの支那そばやへ、よく行ったものであるが、或る晩、私が黙って支那そばをたべていると、そこの小さい女中が、エプロンの下から、こっそり鶏卵を出して、かちと割って私のたべかけているおそばの上に、ぽとりと落して・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・、どうやら口に入れる事が出来ても、青虫の五臓のサラダや蛆のつくだ煮などの婆さんのお料理ばかり食べつけているラプンツェルには、その王さまの最上級の御馳走も、何だか変な味で胸が悪くなるばかりでありました。鶏卵の料理だけは流石においしいと思いまし・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・日曜ごとにK市の本町通りで開かれる市にいつもきまって出現した、おもちゃや駄菓子を並べた露店、むしろの上に鶏卵や牡丹餅や虎杖やさとうきび等を並べた農婦の売店などの中に交じって蓄音機屋の店がおのずからな異彩を放っていた。 器械から出る音のエ・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・実際鶏卵や牛乳や靴の欠乏は聞くも気の毒な状態であるらしいが、ただ驚くのはかの国の科学者、特にペンと紙のほかには物質的材料を要しない種類の科学者が依然としてきわめて重要な研究の結果を着々発表している事である。 ドイツ書の棚の前で数分を費や・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・西瓜は奈良漬にした鶏卵くらいの大きさのものを味うばかりである。奈良漬にすると瓜特有の青くさい匂がなくなるからである。 明治十二、三年のころ、虎列拉病が両三度にわたって東京の町のすみずみまで蔓衍したことがあった。路頭に斃れ死するものの少く・・・ 永井荷風 「西瓜」
出典:青空文庫