・・・ 斉広がいつものように、殿中の一間で煙草をくゆらせていると、西王母を描いた金襖が、静に開いて、黒手の黄八丈に、黒の紋附の羽織を着た坊主が一人、恭しく、彼の前へ這って出た。顔を上げずにいるので、誰だかまだわからない。――斉広は、何か用が出・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・――何でも古い黄八丈の一つ身にくるんだまま、緒の切れた女の草履を枕に、捨ててあったと云う事です。「当時信行寺の住職は、田村日錚と云う老人でしたが、ちょうど朝の御勤めをしていると、これも好い年をした門番が、捨児のあった事を知らせに来たそう・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・ 肩幅の広いのが、薄汚れた黄八丈の書生羽織を、ぞろりと着たのは、この長屋の主人で。一度戸口へ引込んだ宗吉を横目で見ると、小指を出して、「どうした。」 と小声で言った。「まだ、お寝ってです。」 起きるのに張合がなくて、細君・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・羽織は黄八丈である。藤さんのだということは問わずとも別っている。「着物が少し長いや。ほら、踵がすっかり隠れる」と言うと、「母さんのだもの」と炬燵から章坊が言う。「小母さんはこんなに背が高いのかなあ」「なんの、あなたが少し低う・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・古典ではないが、着物の名称など。黄八丈、蚊がすり、藍みじん、麻の葉、鳴海しぼり。かつて実物を見たことがなくても、それでも、模様が、ありありと眼に浮ぶから不思議である。これをこそ、伝統のちからというのであろう。 すこし調子が出て来たぞ・・・ 太宰治 「古典竜頭蛇尾」
・・・そして八月の炎天にもかかわらず、わが空想のその乙女は襟附の黄八丈に赤い匹田絞の帯を締めているのであった。 順序なく筆の行くがままに、最う一ツ我が夏の記憶を茲に語らしめよ。 山の手の深い堀井戸の水を浴びようとかいうので、夏は水道の・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ 真直な往来の両側には、意気な格子戸、板塀つづき、磨がらすの軒燈さてはまた霜よけした松の枝越し、二階の欄干に黄八丈に手拭地の浴衣をかさねた褞袍を干した家もある。行書で太く書いた「鳥」「蒲焼」なぞの行燈があちらこちらに見える。忽ち左右がぱ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・島田に紫と白のむら濃の房のついた飾をつけ、黄八丈の着物をつけた娘が、ぼんやりした若々しさを瞳の底に湛えて、その様子を見ている。そんな情景は紫檀の本箱のつまった二階の天地とは異った人間くささで活々としている。祖父は井上円了の心霊学に反対して立・・・ 宮本百合子 「繻珍のズボン」
出典:青空文庫