・・・私は、一冊本が買えても買えなくても、多くの場合、同じように愉快であった。彼処に、あの煉瓦の建物の中に、彼那にぎっしり、いろいろの絵と文字で埋まった書籍がつまっているのだ。それを知っている丈でも、豊かなよい心持でないか。 幸福な、而も田舎・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・燈火が灯ってから彼処を散歩すると、どの店も派手で活気があり、散策者と店員等を引くるめてあの辺に漂っている一種独特の亢奮した雰囲気に包まれて見える。青や紫のケースの中で凝っとしている宝石類まで、夜というと秘密な生命を吹き込まれるようだ。昼間は・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
・・・――彼処はいけないよ。油断がならない。ヴィンダー が、まあ此処まで来れば、其の心配もないと云うものだ。――どうれ!縮んだ惨めな筋肉ども! 延び拡がって活気をつけろ!ミーダ(ヴィンダーブラの傍に胡坐を組んで四辺誰も未だ帰っていないな。・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・そして、段々矢来の方へ来ると、彼処を通ったことのある人は誰でも知っている左側の家具屋、丁度その前のところを歩いている一人の若い女に目がついた。そこいらで人通りが疎になったばかりではない。若い女の服装が夜目に際立って派手であった。薄紫に白で流・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・去年、始めて私は観たのだが、彼処はよかった。全くよかった。ちょうど今より数日遅いやはり晩春であったが、山門の左右の聯の懸った窟門から、前庭の松花を眺めた気持。多分天王殿の左翼からであったろう。竹林の蔭をゆるやかな傾斜で蜒々と荒れるに任されて・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ 母と私との生活が別々な軌道を持つようになってからは、母の文学的興味も一時下火となった。そのかわりに日本画の稽古がはじめられた。 その時分になれば、家の経済状態も少しはましになって来ていたのであったろう。私がたまに遊びに行くと、母は・・・ 宮本百合子 「母」
雨が降って寒い夕暮など、私はわざと傘を右に傾け、その方は見ないようにして通るのだ。どういう人達が主人なのだろう。そしてまた何故、あの小舎を、彼処に置いておくのだろう。私は、坂を下りかけると、遠くから気をつけて行く。白いもの・・・ 宮本百合子 「吠える」
・・・えーと、何処でしたっけか、先、忠一さんが被行ったって云う温泉、彼処へ行って見ましょうよ、ね、若しよかったらお父様もお連れして「――出来たらね 泰子は、一年振りで、又北陸の田舎を見られる事を相当に楽しみにして居た。 けれども、三月・・・ 宮本百合子 「われらの家」
出典:青空文庫