・・・無論それが終局ではない、人類のあらん限り新局面は開けてやまぬものである。しかしながら一刹那でも人類の歴史がこの詩的高調、このエクスタシーの刹那に達するを得ば、長い長い旅の辛苦も償われて余あるではないか。その時節は必ず来る、着々として来つつあ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・「あら奥様、奥様、大変ですよう――」 そのときになって勝手口からとびだしてきた女中さんが、苦もなく犬の首輪をつかんで引き離しながら、奥の方へむかって叫んでいるのであった。「こんにゃく屋がお菜園をメチャメチャにしてしまいましたわ」・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 明治三十年頃までは日暮里から道灌山あたりの阻台は公園にあらざるも猶公園に均しき閑静の地であった。 上野公園地丘陵の東麓に鉄道の停車場が設けられたのは明治十六年七月である。停車場及鉄道線路の敷地となった処には維新前には下寺と呼ばれた・・・ 永井荷風 「上野」
・・・女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛が」と云うて長い袖が横に靡く、二人の男は共に床の方を見る。香炉に隣る白磁の瓶には蓮の花がさしてある。昨日の雨を蓑着て剪りし人の情けを床に眺むる莟は一輪、巻葉は二つ。その葉を去る三寸ばかりの上に、天井から・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・を直覚させるであらうところの装幀――に関して、多少の行き届いた良心と智慧とをもつてゐる文学者たちは、決していつも冷淡であることができないだらう。 けれどもこの注文は、実際に於て満足されない事情がある。なぜかならば我等の芸術を装幀するもの・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・ こいつは全で空気と同じく、あらゆる地面を蔽ってはいたが、捕えるのに往生した。 下の関行きの、二三等直通列車が走った。 彼は、長い時間を食堂車でつぶして、ビールの汗で体中を飴湯でも打っかけられたように、ネチャつかせながら、彼の座・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・「あら、そうじゃアありませんよ。兄さんには済みません。勘忍して下さいよ。だッて、平田さんがあんまり平気だから……」「なに平気なものか。平生あんなに快濶な男が、ろくに口も利き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得ないくらいだ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・口惜き事にあらずや。女は父母の命と媒妁とに非ざれば交らずと、小学にもみえたり。仮令命を失ふとも心を金石のごとくに堅くして義を守るべし。 幼稚の時より男女の別を正くして仮初にも戯れたる事を見聞せしむ可らずと言う。即ち婬猥不潔のこと・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・されど形は意なくして片時も存すべきものにあらず。意は己の為に存し形は意の為に存するものゆえ、厳敷いわば形の意にはあらで意の形をいう可きなり。夫の米リンスキーが世間唯一意匠ありて存すといわれしも強ちに出放題にもあるまじと思わる。 形とは物・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・その疵のある象牙の足の下に身を倒して甘い焔を胸の中に受けようと思いながら、その胸は煖まる代に冷え切って、悔や悶や恥のために、身も世もあられぬ思をしたものが幾人あった事やら。お前はジョコンダだな。その秘密らしい背景の上に照り輝いて現われている・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫