・・・――あたし行きたいんですけれど」「では行けばいいじゃありませんか」「そんなことはかまわないんですけどね、あたしこちらへまいってから、いつも鬱いでばかりいて、何一つろくにお手伝いしたこともないんでしょう」 自分は立膝をして、物尺を・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・そして歩き付きが意気だわ。お前さんまだあの人の上沓を穿いて歩くとこは見たことがないでしょう。御覧よ。こうして歩くのだわ。それからおこるとね、こんな風に足踏をしてよ。「なんという下女だい。いつまで立っても珈琲の・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ あなの中にいて、大空も海も牧場も見ないこんな人こそは、きっと天国に行きたいにちがいないと思いましたから、鳩は木の枝の上で天国の歓喜を鳩らしく歌い始めました。 ところが百姓は、「いやです。私はまず井戸を掘らんければなりません。で・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 深い真昼時、船頭や漁夫は食事に行き、村人は昼寝をし、小鳥は鳴を鎮めて渡舟さえ動かず、いつも忙しい世界が、その働きをぴたりと止めて、急に淋しくおそろしいように成った時、宏い宏い、心に喰い入るような空の下には、唯、物を云わない自然と、こそ・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・「やたらに煩瑣で、そうして定理ばかり氾濫して、いままでの数学は、完全に行きづまっている。一つの暗記物に堕してしまった。このとき、数学の自由性を叫んで敢然立ったのは、いまのその、おじいさんの博士であります。えらいやつなんだ。もし探偵にでもなっ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・蛹でも食って生きているような感じだ。妖怪じみている。ああ、胸がわるい。 ――そんなにわざわざ蒼い顔して見せなくたっていいのよ。ねえ、プロや。おまえの悪口言ってるのよ。吠えて、おやり。わん、と言って吠えておやり。 ――よせ、よせ。おま・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・老博士は、この伝統の打破に立ったわけであります。」意気いよいよあがった。みんなは、一向に面白くない。末弟ひとり、まさにその老博士の如くふるいたって、さらにがくがくの論をつづける。「このごろでは、解析学の始めに集合論を述べる習慣があります・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・なぜと云うに、あれは伯爵の持物だと云われても、恥ずかしくない、意気な女だからである。どうもそれにしても、ポルジイは余り所嫌わずにそれを連れ歩くようではあるが、それは兎角そうなり易い習だと見れば見られる。しかしドリスを伯爵夫人にするとなると、・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・自分の行きたくて行かれない処の話を、人伝に聞いては満足が出来なくたった。あらゆる面白い事のあるウィインは鼻の先きにある。それを行って見ずに、ぐずぐずしていて、朝夕お極まりに涌き上がって来る、悲しい霧を見ているのである。実に退屈である。ドリス・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・自分はとても生きて還ることはおぼつかないという気がはげしく胸を衝いた。この病、この脚気、たといこの病は治ったにしても戦場は大なる牢獄である。いかにもがいても焦ってもこの大なる牢獄から脱することはできぬ。得利寺で戦死した兵士がその以前かれに向・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫