・・・富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林が黒く並んで、千駄谷の凹地に新築の家屋の参差として連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方が好いので、男は前に相対した二人の娘の顔と姿とにほとんど魂を打ち込ん・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・教授用フィルムに簡単な幻燈でも併用すれば、従来はただ言葉の記載で長たらしくやっている地理学などの教授は、世界漫遊の生きた体験にも似た活気をもって充たされるだろう。そして地図上のただの線でも、そこの実景を眼の当りに経験すれば、それまでとはまる・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・沢の奥の行きづまりには崩れかかったプールの廃墟に水馬がニンプの舞踊を踊っている。どこか泉鏡花の小説を想わせるような雰囲気を感じる。 翌日自動車で鬼押出の溶岩流を見物に出かけた。千ヶ滝から峰の茶屋への九十九折の坂道の両脇の崖を見ると、上か・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・文明のどん底、東ロンドンの娼家の戸口から、意気でデスペラドのマッキー・メッサーが出てくる。その家の窓からおかみが置き忘れたステッキを突きだすのを、取ろうとすると、スルスルと仕込みの白刃が現われる。ドック近くの裏町の門々にたたずむ無気味な浮浪・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・三十年前にはよくTMと一緒に本郷、神田、下谷と連立って歩いた。壱岐殿坂教会で海老名弾正の説教を聞いた。池の端のミルクホールで物質とエネルギーと神とを論じた。 TMの家の前が加賀様の盲長屋である。震災に焼けなかったお蔭で、ぼろぼろにはなっ・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・そしてそこにも、まだ木香のするような借家などが、次ぎ次ぎにお茶屋か何かのような意気造りな門に、電燈を掲げていた。 私たちは白い河原のほとりへ出てきた。そこからは青い松原をすかして、二三分ごとに出てゆく電車が、美しい電燈に飾られて、間断な・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・「じゃ私も行きます」桂三郎も素直に応じた。「だが会社の方へ悪いようだったら」「それは叔父さん、いいんです」 私は支度を急がせた。 雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 悼ましい追憶に生きている爺さんの濁ったような目にはまだ興奮の色があった。「まるで活動写真みたようなお話ね。」上さんが、奥の間で、子供を寝かしつけていながら言い出した。「へえ……これア飛んだ長話をしまして……。」やがて爺さんは立・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・明治初年の日本は実にこの初々しい解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚剥ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、しだいに裸になって行く明治初年の日本の意気は実に凄まじいもので、五ヶ条の誓文が天から下る、藩主が封土を投げ出す、武士が両刀を投出す、えたが平民にな・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・人間夢を見ずに生きていられるものでない。――その時節は必ず来る。無論それが終局ではない、人類のあらん限り新局面は開けてやまぬものである。しかしながら一刹那でも人類の歴史がこの詩的高調、このエクスタシーの刹那に達するを得ば、長い長い旅の辛苦も・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫