・・・珈琲はともかく、煙草がないと、一行も書けないんだからね。その代り、酒はやめた。酒は仕事の邪魔になるからね」「仕事を大事にする気はわかるが、仕事のために高利貸に厄介になるというのも、時勢とはいいながら変な話だ。二千円ぐらい貯金があってもよ・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・しかし、日本の文学の考え方は可能性よりも、まず限界の中での深さということを尊び、権威への服従を誠実と考え、一行の嘘も眼の中にはいった煤のように思い、すべてお茶漬趣味である。そしてこの考え方がオルソドックスとしての権威を持っていることに、私は・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ ところが、ある年の暮、いよいよ押し詰まって来たのにかかわらず、蔵元町人の平野屋ではなんのかんのと言って、一向に用達してくれない。年内に江戸表へ送金せねば、家中一同年も越せぬというありさま故、満右衛門はほとほと困って、平野屋の手代へ、品・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・うちに一口だけ噛らせて」「一口だけ言わんと、ぎょうさん食べ!」 ほろりとした声になった。女の子は夢中になって、ガツガツと食べると、「おっちゃん、うちミネちゃん言うねん。年は九つ」 いじらしい許りの自己紹介だった。「ふーん・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・にもずり落ちそうな、ついでに水洟も落ちそうな、泣くとき紐でこしらえた輪を薄い耳の肉から外して、硝子のくもりを太短い親指の先でこすって、はれぼったい瞼をちょっと動かす、――そんな仕種まで想像される、――一口に言えば爺むさい掛け方、いいえ、そん・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・その癖もう八月に入ってるというのに、一向花が咲かなかった。 いよ/\敷金切れ、滞納四ヵ月という処から家主との関係が断絶して、三百がやって来るようになってからも、もう一月程も経っていた。彼はこの種を蒔いたり植え替えたり縄を張ったり油粕まで・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・――賑かな、しかし寂しい一行は歩み出した。その時から十余年経った。 その五人の兄弟のなかの一人であった彼は再びその大都会へ出て来た。そこで彼は学狡へ通った。知らない町ばかりであった。碁会所。玉突屋。大弓所。珈琲店。下宿。彼はそのせせ・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・「一向要領を得ない!」と上村が叫けんだ。近藤は直に何ごとをか言い出さんと身構をした時、給使の一人がつかつかと近藤の傍に来てその耳に附いて何ごとをか囁いた。すると「近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言ってくれ!」と怒鳴っ・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・「何だね、その不思議な願と言うのは?」と近藤は例の圧しつけるような言振で問うた。「一口には言えない」「まさか狼の丸焼で一杯飲みたいという洒落でもなかろう?」「まずそんなことです。……実は僕、或少女に懸想したことがあります」と・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・』 時田はほとんど一口も入れないで黙って聴いていたが、江藤がやっとやめたので、『その百姓家に娘はいなかったか、』と真顔で問うた。『アアいたいた八歳ばかしの。』何心なく江藤は答える。『そいつは惜しかった十六、七で別品でモデルに・・・ 国木田独歩 「郊外」
出典:青空文庫