・・・ 遠くに競争者が現われる。こちらはいかにも疲れている。あちらの方がピッチが出ている。「……」とうとう止してしまった。「コケコッコウ」 一声――二声――三声――もう鳴かない。ゴールへ入ったんだ。行一はいつか競漕に結びつけてそれ・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸いする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。しかし今すでに受精を終わった杉林の上には褐色がかった落ちつきができていた。瓦斯体のような若芽に煙っていた欅や楢の緑にももう初夏らしい落ちつきが・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ さあその条規も格別に、これとむつかしいことはなく、ただその閣令を出す必要は、その法令を規定したすべての条件を具えたものには、早速払い下げを許可するが、そうでないものをば一斉に書面を却下することとし、また相当の条件を具えた書面が幾通もあ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ それから牧師の祈りと、熱心な説教、そしてすべてが終わって、堂の内の人々一斉の黙祷、この時のしばしの間のシンとした光景――私はまるで別の世界を見せられた気がしたのであります。 帰りは風雪になっていました。二人は毛布の中で抱き合わんば・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・と、上田の声が少し高かったので、鸚鵡が一声高く「樋口さん」と叫びました。「このちくしょう?」と鷹見がうなるように言いましたが、鸚鵡はいっさい平気で、「お玉さん」「人をばかにしている!」と上田が目を丸くしますと、「お玉さん、……樋・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 自分の入って来たのを見て、いきなり一人の水兵が水雷長万歳と叫ぶと、そこらにいた者一斉に立って自分を取り巻き、かの大杯を指しつけた。自分はその一二を受けながら、シナの水兵は今時分定めて旅順や威海衛で大へこみにへこんでいるだろう、一つ彼奴・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・ 一匹の犬が豊吉の立っているすぐそばの、寒竹の生垣の間から突然現われて豊吉を見て胡散そうに耳を立てたが、たちまち垣の内で口笛が一声二声高く響くや犬はまた駆け込んでしまった。豊吉は夢のさめたようにちょっと目をみはって、さびしい微笑を目元に・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・足利氏の時にも相阿弥その他の人、利休と同じような身分の人はあっても、利休ほどの人もなく、また利休が用いられたほどに用いられた人もなく、また利休ほどに一世の趣味を動かして向上進歩せしめた人もない。利休は実に天仙の才である。自分なぞはいわゆる茶・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・貴殿一人が悪いではないが、エーイ、癪に触る一世の姿。」「訳のよく分らぬことを仰せあるが、右膳申したる旨は御取あげ無いか。」「…………」「必ず御用いあることと存じて、大事も既に洩らしたる今、御用いなくば、後へも前へも、右膳も、臙脂・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・お三輪が娘時分に朝寝の枕もとへ来て、一声で床を離れなかったら、さっさと蒲団を片付けてしまわれるほど厳しい育て方をされたのも母だ。そういう母が同じ浦和生れの父を助けて小竹の店を持つ前に、しばらく日本橋石町の御隠居さんの家に勤めていた頃は、朝も・・・ 島崎藤村 「食堂」
出典:青空文庫