・・・「ええ、いっそ登ってしまえ。」――僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように熊笹の中を分けてゆきました。 しかし僕の目をさえぎるものはやはり深い霧ばかりです。もっとも時々霧の中から太い毛生欅や樅の枝が青あおと葉を垂らしたのも見えな・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ついては、身共もいっそ隠居しようかと思う。」 宇左衛門は、ためらった。これが本心なら、元よりこれに越した事はないが、どうして、修理はそれほど容易に、家督を譲る気になれたのであろう。――「御尤もでございます。佐渡守様もあのように、仰せ・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・燕はこれを聞いてなんとも言えないここちになりまして、いっそ王子の肩で寒さにこごえて死んでしまおうかとも思いながらしおしおとして御返事もしないでいますと、だれか二人王子の像の下にある露台に腰かけてひそひそ話をしているものがあります。 王子・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・「私はまた私で、何です、なまじ薄髯の生えた意気地のない兄哥がついているから起って、相応にどうにか遣繰って行かれるだろう、と思うから、食物の足りぬ阿母を、世間でも黙って見ている。いっそ伜がないものと極ったら、たよる処も何にもない。六十を越・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・「じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお婿さんにしてくれれば。……」「するともさ。」「私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。」「ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・生垣の根にはひとむらの茗荷の力なくのびてる中に、茗荷茸の花が血の気少ない女の笑いに似て咲いてるのもいっそうさびしさをそえる。子どもらふたりの心に何のさびしさがあろう。かれらは父をさしおき先を争うて庭へまわった。なくなられたその日までも庭の掃・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・こういう風に互に心持よく円満に楽しいという事は、今後ひとたびといってもできないかも知れない、いっそ二人が今夜眠ったまま死んでしまったら、これに上越す幸福はないであろう。 真にそれに相違ない。このまま苦もなく死ぬことができれば満足であるけ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 少年は、病気にかかって、いまは働くこともできなかったのであります。「これからさき、自分はどうしたらいいだろう。」と考えても、いい思案の浮かぶはずもなかったのです。 いっそ死んでしまおうかしらんと考えながら、彼は、下を向いてとぼ・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・龍雄は、両手をひざに置いて考えていましたが、「どうせ、故郷にいることができないなら、いっそのこと海へいって船乗りになりたいと思います。」と答えました。これを聞くと、おじいさんは黙ってうなずきました。「なるほど、おまえの気質ではそ・・・ 小川未明 「海へ」
・・・どうせ不景気な話だから、いっそ景気よく語ってやりましょう、子供のころでおぼえもなし、空想をまじえた創作で語る以上、できるだけおもしろおかしく脚色してやりましょうと、万事「下肥えの代り」に式で喋りました。当人にしかおもしろくないような子供のこ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫