・・・従ってもし読者が当時の状景を彷彿しようと思うなら、記録に残っている、これだけの箇条から、魚の鱗のように眩く日の光を照り返している海面と、船に積んだ無花果や柘榴の実と、そうしてその中に坐りながら、熱心に話し合っている三人の紅毛人とを、読者自身・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・翼の長い一群の鴎はちょうど猫のように啼きかわしながら、海面を斜めに飛んで行った。あの船や鴎はどこから来、どこへ行ってしまうのであろう? 海はただ幾重かの海苔粗朶の向うに青あおと煙っているばかりである。…… けれども海の不可思議を一層鮮か・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・父は海綿を使ったまま、「よし、今行く」と返事をした。それからまた保吉へ顔を見せながら、「お前はまだはいってお出。今お母さんがはいるから」と云った。勿論父のいないことは格別帆前船の処女航海に差支えを生ずる次第でもない。保吉はちょっと父を見たぎ・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・そこには又海艸の中に大きい海綿もころがっていた。しかしその火も消えてしまうと、あたりは前よりも暗くなってしまった。「昼間ほどの獲物はなかった訣だね。」「獲物? ああ、あの札か? あんなものはざらにありはしない。」 僕等は絶え間な・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・しかもその又風呂敷包みの中から豹に似た海綿をはみ出させていた。「軽井沢にいた時には若い亜米利加人と踊ったりしていたっけ。モダアン……何と云うやつかね」 レエン・コオトを着た男は僕のT君と別れる時にはいつかそこにいなくなっていた。僕は・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 7 上から斜めに見おろした海面。急にどこか空中から水夫の死骸が一つ落ちて来る。死骸は水けぶりの立った中に忽ち姿を失ってしまう。あとには唯浪の上に猿が一匹もがいているばかり。 8 海の向うに見える半島・・・ 芥川竜之介 「誘惑」
・・・地平線に近く夕立雲が渦を巻き返して、驟雨の前に鈍った静かさに、海面は煮つめた様にどろりとなって居る。ドゥニパー河の淡水をしたたか交えたケルソンでも海は海だ。風はなくとも夕されば何処からともなく潮の香が来て、湿っぽく人を包む。蚊柱の声の様に聞・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・ 茶店の裏手は遠近の山また山の山続きで、その日の静かなる海面よりも、一層かえって高波を蜿らしているようでありました。 小宮山は、快く草臥を休めましたが、何か思う処あるらしく、この茶屋の亭主を呼んで、「御亭主、少し聞きたい事がある・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・前は青田、青田が尽きて塩浜、堤高くして海面こそ見えね、間近き沖には大島小島の趣も備わりて、まず眺望には乏しからぬ好地位を占むるがこの店繁盛の一理由なるべし。それに町の出口入り口なれば村の者にも町の者にも、旅の者にも一休息腰を下ろすに下ろしよ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・夕凪の海面をわたりてこの声の脈ゆるやかに波紋を描きつつ消えゆくとぞみえし。波紋は渚を打てり。山彦はかすかに応えせり。翁は久しくこの応えをきかざりき。三十年前の我、長き眠りより醒めて山のかなたより今の我を呼ぶならずや。 老夫婦は声も節も昔・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫