・・・いよいよ今日は歩いてもだめだと学士はあきらめてぴたっと岩に立ちどまりしばらく黒い海面と向うに浮ぶ腐った馬鈴薯のような雲を眺めていたが、又ポケットから煙草を出して火をつけた。それからくるっと振り向いて陸の方・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・ こんなような訳でペンネンネンネンネン・ネネムは一ぺんに世界裁判長になって、みんなに囲まれて裁判長室の海綿でこしらえた椅子にどっかりと座りました。 すると一人の判事が恭々しく申しました。「今晩開廷の運びになっている件が二つござい・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・近い屋根屋根の波の面白さ、それから段々と低くなって並木通へ視線が導かれ、そこに在る点景の白い婦人の姿を中心として一層ひろい海面へのびてゆくリズムは実に変化と諧調に富んでいて、眺めていると複雑にとらえられている角度や線の交錯から、その海辺に都・・・ 宮本百合子 「ヴォルフの世界」
・・・露台の硝子越しに見える松の並木、その梢の間に閃いている遠い海面の濃い狭い藍色。きのう雪が降ったのが今日は燦らかに晴れているから、幅広い日光と一緒に、潮の香が炉辺まで来そうだ。光りを背に受けて、露台の籐椅子にくつろいだ装で母がいる。彼女は不機・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・ 令子は、そっと、動物たちを驚ろかさないように雨戸を鎖した。 朝になったが、萩の葉の裏に水銀のような月の光が残って居る。 令子は海面に砕ける月を見たい心持になって来た。月の光にはいつもほのかな香いがあるが、秋の潮は十六夜の月・・・ 宮本百合子 「黒い驢馬と白い山羊」
・・・フィンランド辺の海は真夏でもキラキラする海面の碧い反射はなくて、どちらかというと灰色っぽく浅瀬が遠く、低く松などあって、寂しさがある。波もひたひたなの。濤の轟きなどという壮快なのはない。虹ヶ浜へは去年のお正月行って海上の島の美しい景色を眺め・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ペルシア行汽船の埠頭などがあり、暑いところのためか、あっちにもこっちにも派手な水色、桃色に塗ったビール・スタンド、泉鉱飲料店を出している。海面に張り出して、からりとした人民保養委員会のレストランなども見えているが、どういう訳か遊歩道には前に・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・「むかし自分の頭を占めて離れなかった雑多な思想を思い浮べてみることもあったが、それらはことごとくからまり合った一連の網となって、頭上はるかな高い海面でただ揺れ動いているかのように見えるだけだった」そして、月給日など「裏町の小路をのっそりと歩・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
十月の澄んだ秋の日に、北部太平洋が濃い藍色に燦いた。波の音は聴えない。つめたそうに冴え冴え遠い海面迄輝いている。船舶の太い細い煙筒が玩具のように鮮かにくっきり水平線に立っていた。 空には雲もなく、四辺は森としている。何・・・ 宮本百合子 「翔び去る印象」
・・・ 見る間に、太陽はぶるぶる慄えながら水平線に食われていった。海面は血を流した俎のように、真赤な声を潜めて静まっていた。その上で、舟は落された鳥のように、動かなかった。 彼は不意に空気の中から、黒い音のような凶徴を感じ出した。彼は急い・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫