・・・若い時分、盛んにいわゆる少女小説を書いて、一時はずいぶん青年を魅せしめたものだが、観察も思想もないあくがれ小説がそういつまで人に飽きられずにいることができよう。ついにはこの男と少女ということが文壇の笑い草の種となって、書く小説も文章も皆笑い・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・それからある植物の枯れた外皮と思われるのがあって、その植物が何だということがどうしても思い出せなかったりした。 これらの小片は動植物界のものばかりでなく鉱物界からのものもあった。斜めに日光にすかして見ると、雲母の小片が銀色の鱗のようにき・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・それで、誤ってジャーナリストの擒となった学者はそのつかまった日一日だけどうにかしてのがれさえすればそれでもう永久に逃げおおせることができるのは周知の事実である。 こういう実に不思議な現象の原因の一つは新聞社間の種取り競争に関連して発生す・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・ただ昔のままをとどめてなつかしいのは放課後の庭に遊んでいる子供らの勇ましさと、柵の根もとにかれがれに咲いた昼顔の花である。 二 月見草 高等学校の寄宿舎にはいった夏の末の事である。明けやすいというのは寄宿・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・向嶋の百花園などへ行っても梅は大方枯れていた。向嶋のみならず、新宿、角筈、池上、小向井などにあった梅園も皆閉され、その中には瓦斯タンクになっていた処もあった。樹木にも定った年齢があるらしく、明治の末から大正へかけて、市中の神社仏閣の境内にあ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・「見やがれ殺しはぐりあるもんか」 犬殺しは毒ついて行ってしまった。太十の怒った顔は其時恐ろしかった。赤は抱かれて後足をだらりと垂れて首をすっと低くして居た。荒繩で括った麻の空袋を肩から引っ懸けた犬殺しの後姿が見えなくなってから太十は・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白い靄が一面に降りて、町の外れの瓦斯灯に灯がちらちらすると思うとまた鉦が鳴る。かんかん竹の奥で冴えて鳴る。それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、腰障子をはめる」「門前・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ざまあ見やがれ、鼻血なんぞだらしなく垂らしやがって―― 私は、本船から、艀から、桟橋から、ここまでの間で、正直の処全く足を痛めてしまった。一週間、全一週間、そのために寝たっきり呻いていた、足の傷の上にこの体を載せて、歩いたので、患部に夥・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・何だかこの往来、この建物の周囲には、この世に生れてから味わずにしまった愉快や、泣かずに済んだ涙や、意味のないあこがれや、当の知れぬ恋なぞが、靄のようになって立ち籠めているようだ。何処の家でも今燈火を点けている。そうすると狭い壁と壁との間に迷・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・谷に臨めるかたばかりの茶屋に腰掛くれば秋に枯れたる婆様の挨拶何となくものさびて面白く覚ゆ。見あぐれば千仞の谷間より木を負うて下り来る樵夫二人三人のそりのそりとものも得言わで汗を滴らすさまいと哀れなり。 樵夫二人だまつて霧をあらはるゝ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
出典:青空文庫