・・・…… 私は黙って腕を組んだまま、しばらくはこの黒衣聖母の美しい顔を眺めていた。が、眺めている内に、何か怪しい表情が、象牙の顔のどこだかに、漂っているような心もちがした。いや、怪しいと云ったのでは物足りない。私にはその顔全体が、ある悪意を・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・かつこの猿芝居は畢竟するに条約改正のための外人に対する機嫌取であるのが誰にも看取されたので、かくの如きは国家を辱かしめ国威を傷つける自卑自屈であるという猛烈なる保守的反動を生じた。折から閣員の一人隈山子爵が海外から帰朝してこの猿芝居的欧化政・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・戦勝国の戦後の経営はどんなつまらない政治家にもできます、国威宣揚にともなう事業の発展はどんなつまらない実業家にもできます、難いのは戦敗国の戦後の経営であります、国運衰退のときにおける事業の発展であります。戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・として大空を飛び廻っている様をうらやましがり、烏は仕合せだなあ、と哀れな細い声で呟いて眠るともなく、うとうとしたが、その時、「もし、もし。」と黒衣の男にゆり起されたのである。 魚容は未だ夢心地で、「ああ、すみません。叱らないで下さい・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ 十二月のはじめ、私は東京郊外の或る映画館、その映画館にはいって、アメリカの写真を見て、そこから出たのは、もう午後の六時頃で、東京の街には夕霧が烟のように白く充満して、その霧の中を黒衣の人々がいそがしそうに往来し、もう既にまったく師走の・・・ 太宰治 「メリイクリスマス」
・・・ その頃、幾年となく、黒衣の帯に金槌をさし、オペラ館の舞台に背景の飾附をしていた年の頃は五十前後の親方がいた。眼の細い、身丈の低くからぬ、丈夫そうな爺さんであった。浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 傘をつぼめて居る私の黒衣の肩に雨が歎く。やがてザックザックと土をすくって柩の上を被うて行く音を聞いた時、急に私の心に蘇った恐ろしいほどの悲しさが私の指の先を震わし喉をつまらせ眼をあやしく輝かせた。 幾時かの後、私が又ここに送られて・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・日夏耿之介氏がアラビアンナイトを訳されると云う広告を見たこともおもい出し、黒衣聖母のうしろを見たら、バートンとある。日本近代詩の浪曼運動その他。床しい心持がした。 午後、机の上の、さむさでいじけ、咲かないまま涸れた薔薇をぼんやり見ている・・・ 宮本百合子 「静かな日曜」
・・・又、黒衣黒帽のストイックは、其処に恐ろしい現代人の没落と地獄的な誘惑とを見たと思うまいものでもない。 彼には、現をぬかして眺めている私の様子がこの上もなく危険に思えるだろう。何故なら、彼那に見ている以上欲しいのに違いない。が、あの身なり・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・ドイツの人々が、日に日に増大する黒衣の女性をみて、ナチス政権がしかけた戦争が、そのようにドイツ民族を殺しつつあることを知るのをおそれたのであった。日本でも、戦争中戦傷者の発表が奇妙な形で行われた。だんだん小きざみに、部分的に、私たちには総数・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
出典:青空文庫