・・・路傍に咲く山つつじでも、菫でも、都会育ちの末子を楽しませた。登れば登るほど青く澄んだ山の空気が私たちの身に感じられて来た。旧い街道の跡が一筋目につくところまで進んで行くと、そこはもう私の郷里の入り口だ。途中で私は森さんという人の出迎えに来て・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ずらしくその日、俄雨があり、夫は、リュックを背負い靴をはいて、玄関の式台に腰をおろし、とてもいらいらしているように顔をしかめながら、雨のやむのを待ち、ふいと一言、「さるすべりは、これは、一年置きに咲くものかしら。」 と呟きました。・・・ 太宰治 「おさん」
・・・吉祥寺の家は、実姉とその旦那さんとふたりきりの住居で、かれがそこの日当りよすぎるくらいの離れ座敷八畳一間を占領し、かれに似ず、小さくそそたる実の姉様が、何かとかれの世話を焼き、よい小説家として美事に花咲くよう、きらきら光るストオヴを設備し、・・・ 太宰治 「喝采」
・・・春田は、どんな言葉でおわびをしたのか、わかりませぬけれど、貴方に書き直しさせたと言って、この二、三日大自慢で、それだけ、私は、小さくなっていなければならず、まことに味気ないことになりました。太宰さん、あなたもよくない。春田が、どのような巧言・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・眼をつぶって口を小さくあけていた。青色のシャツのところどころが破れて、採集かばんはまだ肩にかかっていた。 それきりまたぐっと水底へ引きずりこまれたのである。 二 春の土用から秋の土用にかけて天気のいい日だと、馬禿・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・ 自己弁護なんかじゃ無いと、急いで否定し去っても、心の隅では、まあそんな事に成るのかも知れないな、と気弱く肯定しているものもあって、私は、書きかけの原稿用紙を二つに裂いて、更にまた、四つに裂く。「私は、こういう随筆は、下手なのでは無いか・・・ 太宰治 「作家の像」
・・・ ものかいて扇ひき裂くなごり哉 ふたみにわかれ十九日。 十月十三日より、板橋区のとある病院にいる。来て、三日間、歯ぎしりして泣いてばかりいた。銅貨のふくしゅうだ。ここは、気ちがい病院なのだ。となりの部屋の若旦那は、・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・琴。きぬた。 あぶらやのおせつ。琴。さよかぐら。 とみよしや、おぬゐ。琴。うすごろも。 おりやう。琴。ゆきのあした。 すみ寿。琴。さくらつくし。 おあそ。琴。きりつぼ。 おけふ。琴。こむらさき。 お・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・あるいはこの花の咲く瞬間に放散する匂いではあるまいか。そんなことを話しながら宿のヴェランダで子供らと、こんな処でなければめったにする機会のないような話をするのである。 時候は夏でも海抜九百メートル以上にはもう秋が支配している。秋は山から・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・黒田を誘うて当もなく歩く。咲く花に人の集まる処を廻ったり殊更に淋しい墓場などを尋ね歩いたりする。黒田はこれを「浮世の匂」をかいで歩くのだと言っていた。一緒に歩いていると、見る物聞く物黒田が例の奇警な観察を下すのでつまらぬ物が生きて来る。途上・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
出典:青空文庫