・・・それは歩行する人以外に、物音のする車馬の類が、一つも通行しないためであった。だがそればかりでなく、群集そのものがまた静かであった。男も女も、皆上品で慎み深く、典雅でおっとりとした様子をしていた。特に女性は美しく、淑やかな上にコケチッシュであ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・おいらあ、一月娑婆に居りあ、お前さんなんかが、十年暮してるよりか、もっと、世間に通じちまうんだからね。何てったって、化けるのは俺の方が本職だよ。尻尾なんかブラ下げて歩きゃしねえからな。駄目だよ。そんなに俺の後ろ頭ばかり見てたって。ホラ、二人・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ 監獄で考えるほど、もちろん、世の中は、いいものでもないし、また娑婆へ出て考えるほど、もちろん、監獄は「楽に食えていいところ」でもない。一口に言えば、社会という監獄の中の、刑務所という小さい監獄です。 二 私は面・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・「生きてる間丈け、娑婆に置いて呉れ」 彼は手を合せて頼んだ。 ――俺が、いつ、お前等に蹴込まれるような、悪いことをしたんだ――と彼の眼は訴えていた。 下級海員たちは、何か、背中の方に居るように感じた。又、彼等は一様に、何かに・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・甚だしき遊蕩の沙汰は聞かれざれども、とかく物事の美大を悦び、衣服を美にし、器什を飾り、出るに車馬あり、居るに美宅あり。世間の交際を重んずるの名を以て、附合の機に乗ずれば一擲千金もまた愛しまず。官用にもせよ商用にもせよ、すべて戸外公共の事に忙・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・したものや、地理地形を書くことを目的としたものや、風俗習慣を書くことを目的としたものや、あるいはその地の政治経済教育の有様より物産に至るまで細かに記する事を目的としたもの、あるいは個人的に旅行の里程、車馬の賃、宿泊料などの事を一々に記したも・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・静かだッて淋しいッてまるで娑婆でいう寂莫だの蕭森だのとは違ってるよ。地獄の空気はたしかに死んでるに違いない。ヤ音がするゴーというのは汽車のようだがこれが十万億土を横貫したという汽車かも知れない。それなら時々地獄極楽を見物にいって気晴らしする・・・ 正岡子規 「墓」
・・・「もとは、滅多に留置場へなんか入って来る者もなかったが、その代り入って来る位の奴は、どいつも娑婆じゃ相当なことをやって来たもんだ。それがこの頃じゃどうだ! ラジオだ、ナマコ一枚だ、で留置場は満員だものなア。きんたまのあるような奴が一人で・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・王 御事は母御がうみそこのうて口から先に娑婆の悪い風にふれたと見ゆるわ。法 そのためで経典を誦する事がいこう巧者になりまいてのう――まんざらそんばかりもまいらなんだがまだしもの事―― ま! とどのつまり船は畑ではよう漕げぬと・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・最も注意をひかれるそれ等の箇所については分析の力を有たぬ、而も堂々たる文学評論が漱石によって明治四十二年に書かれたこと、そしてこの大文学者が生涯を通じて非文化的非人格的存在と見た社会層の一端には常に「車馬丁」がおかれ、他の一端には「成金」が・・・ 宮本百合子 「風俗の感受性」
出典:青空文庫