・・・ しばらく見ない間にすっかり大人びた小店員が帳簿を繰った。 堯はその口上が割合すらすら出て来る番頭の顔が変に見え出した。ある瞬間には彼が非常な言い憎さを押し隠して言っているように見え、ある瞬間にはいかにも平気に言っているように見えた・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・――また彼は水素を充した石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。 青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされない堯の心の燠にも、やがてその火は燃えうつった・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 自分、自分の意識というもの、そして世界というものが、焦点を外れて泳ぎ出して行くような気持に自分は捕らえられた。笑っていてもかまわない。誰か見てはいなかったかしらと二度目にあたりを見廻したときの廓寥とした淋しさを自分は思い出した。・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・正作は五郎のために、所々奔走してあるいは商店に入れ、あるいは学僕としたけれど、五郎はいたるところで失敗し、いたるところを逃げだしてしまう。 けれども正作は根気よく世話をしていたが、ついに五郎を自分のそばに置き、種々に訓戒を加え、西国立志・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・ 兵士は、その殆んどすべてが、都市の工場で働いていた者たちか、或は、農村で鍬や鎌をとっていた者たちか、漁村で働いていた者たちか、商店で働いていた者たちか、大工か左官の徒弟であった者たちか、そういう青年たちばかりだ。小学校へ行っている時分・・・ 黒島伝治 「入営する青年たちは何をなすべきか」
・・・ 栗本は、何か重要なことを忘れてきたようで、焦点のきまらない方に注意を奪われがちだった。すべてが紙一重を距てた向うで行われているような気がした。顛覆した列車の窓からとび出た時の、石のような雪の感触や、パルチザンの小銃とこんがらがった、メ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ただこれは、東海に不死の薬をもとめ、バベルに昇天の塔をきずかんとしたのと、同じ笑柄である。 なるほど、天下多数の人は、死を恐怖しているようである。しかし、彼らとても、死のまぬがれぬのを知らぬのではない。死をさけられるだろうとも思っていな・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・只だ是れ東海に不死の薬を求め、バベルに昇天の塔を築かんとしたのと同じ笑柄である。 成程天下多数の人は死を恐怖して居るようである、然し彼等とても死の免がれぬのを知らぬのではない、死を避け得べしとも思って居ない、恐らくは彼等の中に一人でも、・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・官省、学校、病院、会社、銀行、大商店、寺院、劇場なぞ、焼失したすべてを数え上げれば大変です。中でも五〇万冊の本をすっかり焼いた帝国大学図書館以下、いろいろの官署や個人が二つとない貴重な文書なぞをすっかり焼いたのは何と言っても残念です。大学図・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・は、モダン型の紙幣が出て、私たち旧式の紙幣は皆焼かれてしまうのだとかいう噂も聞きましたが、もうこんな、生きているのだか、死んでいるのだかわからないような気持でいるよりは、いっそさっぱり焼かれてしまって昇天しとうございます。焼かれた後で、天国・・・ 太宰治 「貨幣」
出典:青空文庫