・・・その幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている。それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。 島々からのバスの道路が次第次第に梓川の水面から高く離れて行く。ある地点では車の窓か・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・それでもピアノの大曲となればやはりコンツェルトのように管弦が添うのが常である。合奏として見た連句で、三人ないし四五人までの共同制作になるものに比較さるべきものとしては各種のいわゆる「室内楽」がある。すなわち三重奏、四重奏、五重奏と称するのが・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・私がもし古美術の研究家というような道楽をでももっていたら、煩いほど残存している寺々の建築や、そこにしまわれてある絵画や彫刻によって、どれだけ慰められ、得をしたかしれなかったが――もちろん私もそういう趣味はないことはないので、それらの宝蔵を瞥・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・で仕立てた不孝の子二十四名を荒れ出すが最後得たりや応と引括って、二進の一十、二進の一十、二進の一十で綺麗に二等分して――もし二十五人であったら十二人半宛にしたかも知れぬ、――二等分して、格別物にもなりそうもない足の方だけ死一等を減じて牢屋に・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・もしかそうだったらどんなに嬉しいだろう。 私は五年生ごろから、こんにゃく売りをしていた。学校をあがってから、ときには学校を休んで、近所の屋敷町を売り歩いた。 私は学校が好きだったから、このんで休んだわけではない。こんにゃくを売って、・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・左の方はひろい芝生つづきの庭が見え、右の方は茄子とか、胡瓜を植えた菜園に沿うて、小さい道がお勝手口へつづいている。もちろん私はお勝手口の方へその小さい菜園の茄子や胡瓜にこんにゃく桶をぶっつけぬように注意しながらいったのであるが、気がつくと、・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・鉄の門の内側は広大な熊本煙草専売局工場の構内がみえ、時計台のある中央の建物へつづく砂利道は、まだつよい夏のひざしにくるめいていて、左右には赤煉瓦の建物がいくつとなく胸を反らしている。―― いつものように三吉は、熊本城の石垣に沿うてながい・・・ 徳永直 「白い道」
・・・―― いつものように三吉は、熊本城の石垣に沿うてながい坂道をおりてきて、鉄の通用門がみえだすあたりから足どりがかわった。門はまだ閉まっているし、時計台の針は終業の五時に少し間がある。ド・ド・ド……。まだ作業中のどの建物からもあらい呼吸づ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・墓地本道の左右に繁茂していた古松老杉も今は大方枯死し、桜樹も亦古人の詩賦中に見るが如きものは既に大抵烏有となったようである。根津権現の花も今はどうなったであろうか。 根津権現の社頭には慶応四年より明治二十一年まで凡二十一年間遊女屋の在っ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・半農半商ともいうべきそういう人々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷の如き果樹が立っている。 去年の春、わたくしは物買いに出た道すがら、偶然茅葺屋根の軒端に梅の花の咲いていたのを見て、覚えず立ちどまり、花のみならず枝や幹の形をも眺めやったのであ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫