・・・「おお、いい子、いい子、泣くんじゃねえ。誰が来たって、どいつが来たって、坊を渡すこっちゃねえからな」 彼は、子供を確り抱きしめた。そしてとりたての林檎のように張り切った小さな頬に、ハムマーのようにキッスを立て続けにぶっつけた。 ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・釣れるときにはこんなにあっけなくかかるのに、釣れないとなると、どうにもしかたがないものである。私が成功したのは後にも先にもこれが一回きりだ。 釣りあげられた河豚は腹を立てて、まん丸く、フットボールのようにふくらんだ。これを船底にたたきつ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・結城紬の小袖に同じ羽織という打扮で、どことなく商人らしくも見える。 平田は私立学校の教員か、専門校の学生か、また小官員とも見れば見らるる風俗で、黒七子の三つ紋の羽織に、藍縞の節糸織と白ッぽい上田縞の二枚小袖、帯は白縮緬をぐいと緊り加減に・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 顔に袖を当てて泣く吉里を見ている善吉は夢現の界もわからなくなり、茫然として涙はかえッて出なくなッた。「善さん、勘忍して下さいよ。実に済みませんでした」と、吉里はようやく顔を上げて、涙の目に善吉を見つめた。 善吉は吉里からこの語・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・しかしほどなく目が闇に馴れた。数日前から夜ごとに来て寝る穴が、幸にまだ誰にも手を附けられずにいると云うことが、ただ一目見て分かった。古い車台を天井にして、大きい導管二つを左右の壁にした穴である。 雪を振り落してから、一本腕はぼろぼろにな・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・取りながら、其実は支那台の西洋鍍金にして、殊に道徳の一段に至りては常に周公孔子を云々して、子女の教訓に小学又は女大学等の主義を唱え、家法最も厳重にして親子相接するにも賓客の如く、曾て行儀を乱りたることなく、一見甚だ美なるに似たれども、気の毒・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・意は内に在ればこそ外に形われもするなれば、形なくとも尚在りなん。されど形は意なくして片時も存すべきものにあらず。意は己の為に存し形は意の為に存するものゆえ、厳敷いわば形の意にはあらで意の形をいう可きなり。夫の米リンスキーが世間唯一意匠ありて・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・ぎごちなくなった指を伸ばして、出そうになった欠を噛み潰した。そしてやおらその手を銀盤の方へ差し伸べた。盤上には数通の書簡がおとなしく待っていたのである。 ピエエルは郵便を選り分けた。そしてイソダン郵便局の消印のある一通を忙わしく選り出し・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・そうすると信用というものもなくなり、幸福の影が消えてしまう。たまたま苦労らしい嘆らしい事があっても、己はそれを考の力で分析してしまって、色の褪めた気の抜けた物にしてしまったのだ。ほんに思えばあの嬉しさの影をこの胸にぴったり抱き寄せるべきであ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・詠歌のごときはもとよりその専攻せしところに非ざるべきも、胸中の不平は他に漏らすの方なく、凝りて三十一字となりて現れしものなるべく、その歌が塵気を脱して世に媚びざるはこれがためなり。彼自ら詠じて曰く吾歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫