・・・ 渠はひもじい腹も、甘くなるまで、胸に秘めた思があった。 判官の人待石。 それは、その思を籠むる、宮殿の大なる玉の床と言っても可かろう。 四 金石街道の松並木、ちょうどこの人待石から、城下の空を振向く・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・――いささか気障ですが、うれしい悲しいを通り越した、辛い涙、渋い涙、鉛の涙、男女の思迫った、そんな味は覚えがない、ひもじい時の、芋の涙、豆の涙、餡ぱんの涙、金鍔の涙。ここで甘い涙と申しますのは。――結膜炎だか、のぼせ目だか、何しろ弱り目に祟・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・……ここは、ひもじい経験のない読者にも御推読を願っておく。が、いつになってもその朝の御飯はなかった。 妾宅では、前の晩、宵に一度、てんどんのお誂え、夜中一時頃に蕎麦の出前が、芬と枕頭を匂って露路を入ったことを知っているので、行けば何かあ・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・もはや寒い、ひもじい思いなんかというものは、夢にも忘れられたような気がします。そして、私は、どんな寒い日でも、暖かに、風や、雨と戦うことができるのです。人々は、私の働きと力とをはじめて認めてくれたように、私の下で燃え上がる火のそばによってき・・・ 小川未明 「煙突と柳」
・・・ そのきょとんとした眼は、自分はなぜこんな所で夜を過さねばならないのか、なぜこんなひもじい想いをしなければならないのか、なぜ夜中に眼をさましたのか、なぜこんなに寒いのか、不思議でたまらぬというような眼であった。 父親はグウグウ眠って・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・食うや呑まずの苦しい暮しが続いた恵まれぬ将棋指しとしての荒い修業時代、暮しの苦しさにたまりかねた細君が、阿呆のように将棋一筋の道にしがみついて米一合の銭も稼ごうとせぬ亭主の坂田に、愛想をつかし、三人のひもじい子供を連れて家出をし、うろうろ死・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・寒いのと、おそらくひもじいのと両方で、からだをぶるぶるふるわせ、下あごをがたがたさせながら、引きつれたような、ぐったりした顔をして、じろじろと、かぎにかかった肉を見つめています。 肉屋は、おどけた目つきをして、ちょいちょいそのやせ犬を見・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・でないと子どもらがひもじいって泣きます。あとの事、あとの事。まだ天国の事なんか考えずともよろしい。死ぬ前には生きるという事があるんだから」 で鳩はまた百姓の言ったかわいそうな奥さんが夏を過ごしている、大きないなかの住宅にとんで行きました・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 籠の鶉もまだ昼飯を貰わないのでひもじいと見えて頻りにがさがさと籠を掻いて居る。 台所では皿徳利などの物に触れる音が盛んにして居る。 見る物がなくなって、空を見ると、黒雲と白雲と一面に丑寅の方へずんずんと動いて行く。次第に黒雲が・・・ 正岡子規 「飯待つ間」
・・・蜘蛛は森の入口の楢の木に、どこからかある晩、ふっと風に飛ばされて来てひっかかりました。蜘蛛はひもじいのを我慢して、早速お月様の光をさいわいに、網をかけはじめました。 あんまりひもじくておなかの中にはもう糸がない位でした。けれども蜘蛛は・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
出典:青空文庫