・・・ お民はまた返事をせずに横を向いた。「兎に角きょうは用があるから。これから出掛けるのだから。おとなしくお帰んなさい。」と僕は立って入口の戸を明けた。 お民は身動きもせず悠然として莨の烟を吹いている。僕は再び「さア。」といって促す・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ 太十は返辞をしなかった。然し彼の薄弱な心は大きな石で圧えつけられたように且つ釘付にされたように、彼の心の底にはそれが又厭であったけれどそうしっかと極められて畢った。彼の心は劇しく動揺して且つ困憊した。「それじゃ三次でも連れて来べえ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・すると牧君は自分の方は伸ばせば幾らでも伸びると気丈夫な返事をしてくれたので、たちまち親船に乗ったような心持になって、それじゃア少し伸ばしていただきたいと頼んでおきました。その結果として冒頭だか序論だかに私の演説の短評を試みられたのはもともと・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・ と、漢語調の軍隊言葉で、如何にも日本軍人らしく、彼は勇ましい返事をした。そして先頭に進んで行き、敵の守備兵が固めている、玄武門に近づいて行った。彼の受けた命令は、その玄武門に火薬を装置し、爆発の点火をすることだった。だが彼の作業を終っ・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・だが次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・第一何が何だかさっぱり話が分らねえじゃねえか、人に話をもちかける時にゃ、相手が返事の出来るような物の言い方をするもんだ。喧嘩なら喧嘩、泥坊なら泥坊とな」「そりゃ分らねえ、分らねえ筈だ、未だ事が持ち上らねえからな、だが二分は持ってるだろう・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 吉里は返辞をしないでさッさッと行く。お熊はなお附き纏ッて離れぬ。「ですがね、花魁。あんまりわがままばかりなさると、私が御内所で叱られますよ」「ふん。お前さんがお叱られじゃお気の毒だね。吉里がこうこうだッて、お神さんに何とでも訴・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 一言の返事もせずに、地びたから身を起したのは、痩せ衰えた爺いさんである。白い鬚がよごれている。頭巾の附いた、鼠色の外套の長いのをはおっているが、それが穴だらけになっている。爺いさんはパンと腸詰とを、物欲しげにじっと見ている。 一本・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・るも容易に信ずる者なく、却て自分を目し虚偽を伝うる者なりとして、爾余の報告までも概して信を失うに至る可し、日本の婦人は実に此世に生きて生甲斐なき者なり、気の毒なる者なり、憐む可き者なり、吾々米国婦人は片時も斯る境遇に安んずるを得ず、死を決し・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・子供の心身の暗弱四肢耳目の不具は申すまでもなく、一本の歯一点の黶にも心を悩まして日夜片時も忘るゝを得ず。俗に言う子供の馬鹿ほど可愛く片輪ほど憐れなりとは、親の心の真面目を写したるものにして、其心は即ち子供の平等一様に幸福ならんことを念ずるの・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
出典:青空文庫