過日、わたしはもののはじに、ことしの夏のことを書き添えるつもりで、思わずいろいろなことを書き、親戚から送って貰った桃の葉で僅かに汗疹を凌いだこと、遅くまで戸も閉められない眠りがたい夜の多かったこと、覚えて置こうと思うことも・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・青い夕顔に、真魚板に、庖丁と、こうあれに渡したと思わっせれ。ところが、あなた、あれはもう口をフウフウ言わせて、薄く切って見たり、厚く切って見たり。この夕顔はおよそ何分ぐらいに切ったらいいか、そういうことに成るとまるであれには勘考がつかんぞな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・息張るの高慢ぶるのという事は、わたしなんぞはとっくに忘れてしまったのだ。世に人鬼は無いものだ。つい構わずにどの内へでも這入って御覧よ。」 老人はそこの家の前に暫く立っていて、また戸口と窓とを眺めた。そのうちに老人の日に焼けた顔が忽ち火の・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・そしてあわただしげに右の手をずぼんの隠しに入れてありたけの貨幣を掴み出して、それを青年の手に渡した。「さあ、これを取って置け。お前はまだ年が若い。己よりはお前の方がまだこの世に用がありそうだ。」 青年は、貨幣を受け取って「難有う」と・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・すると幸い、だれも人のいない船が一そう、上手から流れて来たので、高橋さんはそれに乗りうつり、氏一人を見かねてとびこんで来た河田軍医と二人で、岸から岸へ綱をわたし、それをたよりに、わずか一そうの船で、すべての患者を、重病者はたんかへ乗せたまま・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ほんとにお前さんのそうしているところを見ると、わたし胸が痛くなるわ。珈琲店で、一人ぼっちでいるなんて。お負けにクリスマスの晩だのに。わたしパリイにいた時、婚礼をした連中が料理店に這入っていたのを見たことがあるのよ。お嫁さんは・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・さて夏の中でもすぐれた美しい聖ヨハネ祭に、そのおばあさんが畑と牧場とを見わたしていますと、ひょっくり鳩が歌い始めました。声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・と云い渡しました。 家の者は、此知らない土地へ旅立つ為、種々仕度を調えました。スバーの心は、まるで靄に包まれた明方のように涙でしめりました。近頃、次第に募って来た、ぼんやりとした恐しさで、彼女は物の云えない獣のように、父や母につきま・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・まず、ざっと、こんなものだ、と言わぬばかりに、ナルシッサスは、再び、人さし指で気障な頬杖やらかして、満座をきょろと眺め渡した。「うん。だいたい、」長兄は、もったいぶって、「そんなところで、よろしかろう。けれども、――」長兄は、長兄として・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・くして顔を挙げ、笑いをこらえているように、下唇を噛んで、ぽっと湯上りくらいに赤らんでいる顔を仰向けて、乱れた髪を掻きあげ、それから、急にまじめになって私のほうにまっすぐに向き直り、「安心してけせ。わたしも、馬鹿でごいせん。来たら来たと、・・・ 太宰治 「嘘」
出典:青空文庫