・・・ この男の語るところによれば、かれはそれを途上で拾ったが、読むことができないのでこれを家に持ち帰りその主人に渡したものである。 このうわさがたちまち近隣に広まった。アウシュコルンの耳にも達した。かれは直ちに家を飛びだしてこの一条の物・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・一度妻を持って、不幸にして別れたが、平生何かの機会で衝突する度に、「あなたはわたしを茶かしてばかしいらっしゃる」と云うのが、その細君の非難の主なるものであった。 木村の心持には真剣も木刀もないのであるが、あらゆる為事に対する「遊び」の心・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ 花房は聴診器を佐藤の手に渡した。「ちょっと聴いて見給え。胎児の心音が好く聞える。手の脈と一致している母体の心音よりは度数が早いからね。」 佐藤は黙って聴診してしまって、忸怩たるものがあった。「よく話して聞せて遣ってくれ給え・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・その時グランの僧正が引導を渡したと云うのは訛伝である。それに反して、女房ユリアが夜明かしをして自分で縫った黒の喪服を着て、墓の前に立ったと云うのは事実である。公園中に一しょに住んでいただけの人は皆集まっていて、ユリアを慰めた。その詞はざっと・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・悲しいことは悲しいのですが、わたしだって男一匹だ。ここに来たからには、せっかくの御注意ですが、やっぱりこのまま置いてお貰い申しましょう。」ツァウォツキイはこう云って、身を反らして、傲慢な面附をして役人の方を見た。胸に挿してある小刀と同じよう・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ お留は安次に渡した一円の紙幣が庭に落ちているのを見ると、走って行って渡そうかと思ったが、しかしそれでは却って追い出すようでいけないし、「まア好えわア。」と彼女は呟いた。 それより此の次もう一円増してやる方が、息子の無情な仕打ち・・・ 横光利一 「南北」
・・・「余計な事を聞くようだが、わたしは小説を書くものだからね。」 この時相手は初めて顔を上げた。「小説家でおいでなさるのですか。デネマルクの詩人は多くこの土地へ見えますよ。」「小説なんと云うものを読むかね。」 エルリングは頭を振った・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・「わたしは病気ではないのです。弟が病気で、ニッツアに行っています所が、そいつがひどく工合が悪くなったというので、これから見舞に行って遣るのです。」「左様でございますか。それならあなた、弟さんを直ぐに連れてお帰りなさいましよ。御容体が・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・といいましたら、奥様が妙に苦々しい笑いようを為って、急に改まって、きっぱりと「マアぼうは、そんなことを決していうのじゃありませんよ、坊はやっぱりそのままがわたしには幾ら好のか知れぬ、坊のその嬉しそうな目付、そのまじめな口元、ひとつも変えたい・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫