・・・第一死んだとも思っていない。ただいつか見たことのない事務室へ来たのに驚いている。―― 事務室の窓かけは日の光の中にゆっくりと風に吹かれている。もっとも窓の外は何も見えない。事務室のまん中の大机には白い大掛児を着た支那人が二人、差し向かい・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・大浦自身の言葉によれば、彼は必ずしも勇士のように、一死を賭してかかったのではない。賞与を打算に加えた上、捉うべき盗人を逸したのである。しかし――保吉は巻煙草をとり出しながら、出来るだけ快活に頷いて見せた。「なるほどそれじゃ莫迦莫迦しい。・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・とにかく、彼らは、一死を分として満足・幸福に感じて屠腹した。その満足・幸福の点においては、七十余歳の吉田忠左衛門も、十六歳の大石主税も、同じであった。その死の社会的価値もまた、寿夭の如何に関するところはないのである。 人生、死に所を得る・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・人は尽く光栄ある余生を送りて、終りを克くし得たであろう歟、其中或は死よりも劣れる不幸の人、若くば醜辱の人を出すことなかったであろう歟、生死孰れが彼等の為めに幸福なりし歟、是れ問題である、兎に角、彼等は一死を分として満足・幸福に感じて屠腹した・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・伝え聞く、箱館の五稜郭開城のとき、総督榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告せしに、一部分の人はこれを聞て大に怒り、元来今回の挙は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習として一死以て二百五十年の恩に報るのみ、総督もし生を欲せば出で・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
出典:青空文庫