・・・「ユダヤ人はその職業上の環境や民族の過去のために、人から信用されるという経験に乏しい。この点に関してユダヤ人の学者に注目して見るがいい。彼等は論理というものに力瘤を入れる。すなわち理法によって他の承諾を強要する。民族的反感からは信用したくな・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・漁師の神さんが鮪を料理するよりも鮮やかな手ぶりで一匹の海豹を解きほごすのであるが、その場面の中でこの動物の皮下に蓄積された真白な脂肪の厚い層を掻き取りかき落すところを見ていた時、この民族の生活のいかに乏しいものであるかということ、またその乏・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・しかしこの堂宇は改築されて今では風致に乏しいものとなり、崖の周囲に茂っていた老樹もなくなり、岡の上に立っていた戸田茂睡の古碑も震災に砕かれたまま取除けられてしまったので、今日では今戸橋からこの岡を仰いで、「切凧の夕越え行くや待乳山」の句を思・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・古風な美人立の顔としてはまず申分のない方であるが、当世はやりの表情には乏しいので、或人は能楽の面のようだと評し、又或人は線が堅くて動きのない顔だと言った。身丈は高からず低からず、肉付は中の部である。着物の着こなしも、初て目見得の夜に見た時の・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・僕だって御菜上の智識はすこぶる乏しいやね。明日の御みおつけの実は何に致しましょうとくると、最初から即答は出来ない男なんだから……」「何だい御みおつけと云うのは」「味噌汁の事さ。東京の婆さんだから、東京流に御みおつけと云うのだ。まずそ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・格堂の句は旨い事は実に旨いものであるが、その句法が一本筋であるだけにいくらか変化に乏しい処がある。 このほか鳴雪、四方太、紅緑、等諸氏の句については近来見る処が少ないのでわざと評を省いて置く。〔『ホトトギス』第五巻第八号 明治3・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・糧に乏しい村のこどもらが、都会文明と放恣な階級とに対するやむにやまれない反感です。 5 水仙月の四日赤い毛布を被ぎ、「カリメラ」の銅鍋や青い焔を考えながら雪の高原を歩いていたこどもと、「雪婆ンゴ」や雪狼、雪童子とのものがたり・・・ 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
・・・そして、忙しくて乏しい歳末の喧騒にまぎれて、この事件は忘れられ、今日、私たちは、その事件のおこった当日と大して変りない暴力的交通状態の下に暮しているのである。 新聞記事の出た前後、検事局の態度にあきたりない投書が、どっさりあった。この一・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・恩をもって怨みに報いる寛大の心持ちに乏しい。即座に権兵衛をおし籠めさせた。それを聞いた弥五兵衛以下一族のものは門を閉じて上の御沙汰を待つことにして、夜陰に一同寄り合っては、ひそかに一族の前途のために評議を凝らした。 阿部一族は評議の末、・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・特にその才能の乏しいのを嘲うような態度は、恐ろしい冷酷として、むしろ憎むべき事に思います。才能の乏しいのは確かにいい事ではないでしょう。しかし才能が人間のすべてではありません。才能の乏しい者にも愛すべき者があり才能の豊かな者にも卑しむべき者・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫