・・・まして時ならぬ今時分何しに大根おろしを拵えよう。これはきっと別の音が大根おろしのように自分に聞えるのにきまっていると、すぐ心の裡で覚ったようなものの、さてそれならはたしてどこからどうして出るのだろうと考えるとやッぱり分らない。 自分は分・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。 しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。仰向いてこの態度を眺めていた一人の・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・「今時分、何の用事だい? 泥棒じゃあるめえし、夜中に踏み込まなくたって、逃げも隠れもしやしねえよ」 吉田は、そう考えることによって、何かのいい方法を――今までにもう幾度か最後の手段に出た方がいい、と考えたにも拘らず、改めて又、―・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を顰めた。 ばたばたと走ッて来た草履の音が小万の室の前に止ッて、「花魁、ちょいと」と、中音に呼んだのは、小万の新造のお梅だ。「何だよ」「ちょいとお顔を」「あい。初会・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 今時分」「盗っとか?」「何でもあんめえ、さ、一杯進ぜようて」「いや、一寸待った」 顔役で、部長の勘助が兵児帯をなおしながら立ち上った。「ちょっくら見て来べえ、万一何事かおっ始まってるに、おれたちゃあ酒くらって知んねえか・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
これまで、今時分の東京の乾物屋の店先にこんなに種々様々にあしらわれて鰊が並んだことがあっただろうか。 身がきにしんの束がそこにあるわきで、小僧と娘さんとが、その身がきにしんにドロリとした黒いたれをつけて焼いている。その・・・ 宮本百合子 「諸物転身の抄」
・・・ 時々舞台からフーッとはなれた気持になって今時分あの人が来てやしまいかなんかと思った。 それでも身綺麗にした若い人達の間を揉まれ揉まれしてゆるゆる歩いて居る時にはいかにも軽い一色の気持になって居た。 クルクルに巻いた筋書を袂に入・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・「今時分人でもあんめえし……」 浮藻に波の影が差しているのだろうと思って見ると、そう見えないこともない。 が、しかし…… 何だか気になってたまらない彼は、煙管を持った手を後で組み、継ぎはぎのチャンチャンの背を丸めて、堤沿いに・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
家中寝鎮まったものと思って足音を忍ばせ、そーッと階下へおりて行ったら、茶の間に灯がついていて、そこに従弟が一人中腰で茶を飲んでいた。どうしたの今時分まで、というと、鼠退治さ。栗のいがってどこにあるんだい。さア、私も知らない・・・ 宮本百合子 「未開の花」
・・・独逸はまだひどく寒いのです。今時分お帰りなさるようでは、あなたは御保養にいらっしゃったのではございませんね。」「いいえ。わたくしも病気なのでございます。」 この詞を、女は悲しげに云った。しかし悲しいながらも自分の運命と和睦している、・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫