・・・そして一層地理を失い、多岐に別れた迷路の中へ、ぬきさしならず入ってしまった。山は次第に深くなり、小径は荊棘の中に消えてしまった。空しい時間が経過して行き、一人の樵夫にも逢わなかった。私はだんだん不安になり、犬のように焦燥しながら、道を嗅ぎ出・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・そして忌まわしい世に別れを告げてしまった。 その同じ時刻に、安岡が最期の息を吐き出す時に、旅行先で深谷が行方不明になった。 数日後、深谷の屍骸が渚に打ち上げられていた。その死体は、大理石のように半透明であった。・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・平田さんには別れなければならないし、兄さんでも来て下さらなきゃ、私ゃどうします。私が悪るかッたら謝罪るから、兄さん今まで通り来て下さいよ。私を可哀そうだと思ッて来て下さいよ。え、よござんすか。え、え」と、吉里は詫びるように頼むように幾たびと・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・夫とて万歳の身に非ず、老少より言えば夫こそ先きに世を去る可き順なれば、若し万一も早く夫に別れて、多勢の子供を始め家事万端を婦人の一手に引受くるが如き不幸もあらんには、其時に至り亡人の存命中、戸外に何事を経営して何人に如何なる関係あるや、金銭・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・と、まあ、源は一つだけれども、こんな風に別れて来ていたんだ。 社会主義を抱かせるに関係のあった露国の作家は、それは幾つもあった。ツルゲーネフの作物、就中『ファーザース・エンド・チルドレン』中のバザーロフなんて男の性格は、今でも頭に染み込・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・ お別れにお互に涙を飜したことは、まだ覚えていらっしゃって。お互に口に出さないつらさを感じましたわね。 それだのにあなた、パリイにいらっしゃってから、すぐにわたくしの事をお忘れなさいましたのね。お手紙はたった四度しか参りませんでした・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・とかくする内に「海楼に別れを惜む月夜かな」と出来た。これにしようと、きめても見た。しかし落ちつかぬ。平凡といえば平凡だ。海楼が利かぬと思えば利かぬ。家の内だから月夜に利かぬ者とすれば家の外へ持って行けば善い。「桟橋に別れを惜む月夜かな」と直・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・ さてその人と私らは別れましたけれども、今度はもう要心して、あの十間ばかりの湾の中でしか泳ぎませんでした。 その時、海岸のいちばん北のはじまで溯って行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走って戻って来ました。「先生、岩に何かの足痕・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・然し彼女の成熟した女性は愛を欲し、大きな情熱によってその婚約した青年とは永劫に別れつつ、彼の児の母となった。社会の常識と闘い、アンネットはそれを機会に新たな生涯に入った。彼女は、彼女の父親の代から属していた有産階級と絶縁し、家庭教師その他知・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・一度妻を持って、不幸にして別れたが、平生何かの機会で衝突する度に、「あなたはわたしを茶かしてばかしいらっしゃる」と云うのが、その細君の非難の主なるものであった。 木村の心持には真剣も木刀もないのであるが、あらゆる為事に対する「遊び」の心・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫