・・・ 奥深い旅宿の一室を借りて三人は次ぎの発車まで休息することにした。おはまは二人の前にひれふしてひたすらに詫びる。「わたしはこんなことをするつもりではなかったのであります、思わず識らずこんな不束なまねをして、まことに申しわけがありませ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ ちょうど、このとき、奥深い寺の境内から、とぼとぼとおじいさんがつえをついて歩いて出てきました。 おじいさんは、白いひげをはやしていました。 二郎は、そのおじいさんを見ていますと、おじいさんは、二郎のわきへ近づいて、ゆき過ぎよう・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・ そういって、いわつばめは、だんだん黄昏れていく、奥深い空を見上げていました。 うっかりしようものなら、冷い風が、小さな体をさらって、もう暗くなった谷間へたたき落とそうとしたのであります。 しんぱくは、そのたびに、頭をはげしく振・・・ 小川未明 「しんぱくの話」
・・・ 私は、さま/″\の忘れられた懐しい夢を、もう一度見せてくれる、また心を、不可思議な、奥深い怪奇な、感情の洞穴に魅しくれる、此種の芸術に接するたびに、之を愛慕し、之を尊重視するの念を禁じ得ない。・・・ 小川未明 「忘れられたる感情」
・・・そしてその声が実際幽咽するとでもいうのか、どこか奥深い御殿のずっと奥の方から遥かに響いて来るような籠った声である。これは歌う人が口をあまり十分に開かず、唇もそんなに動かさずに、口の中で歌っているせいかもしれない、始めの独唱のときは、どの人が・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・最後の審判は我々が最も奥深いものによって定まるのである。これを陛下に負わし奉るごときは、不忠不臣のはなはだしいものである。 諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・されば昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の陰はいよいよ暗く、その最も暗い木立の片隅の奥深いところには、昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。その中の一ツは出入りの安吉という植木屋が毎年々々手入の松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、・・・ 永井荷風 「狐」
・・・現在の門は東向きであるが、昔は北に向い、道端からはずっと奥深い処にあったように思われるが、しかしこの記憶も今は甚だおぼろである。その頃お酉様の鳥居前へ出るには、大音寺前の辻を南に曲って行ったような気がする。辻を曲ると、道の片側には小家のつづ・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・傷の癒着と、こういう全身的な衝撃の余韻とがおなじテムポで消えないで、傷は日に日によくなっても、疲れが奥深いところにある。○ 鴎外の「妻への手紙」。明治三十七八年という時代の色、匂いが何と高いだろう。手紙の書かれた環境も、部分的ではあるが・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・古典のゆたかな奥深い森の火で私たちは特に今日その文学のいのちの泉をたっぷりと自分たちのうちへ汲みとるべき必要がある。礼讚するばかりでなく、自分のきょうの心をどう現してゆくべきかということをいつも一方に現実の課題として古典を学んでゆくときなの・・・ 宮本百合子 「古典からの新しい泉」
出典:青空文庫