・・・界隈の娘に安い月謝で三味線を教えてくらしていたがきこえて来るのは、年中、「高い山から谷底見れば」ばかり、つまりは、弟子が永続きしないのだった。それというのも、新しい弟子が来ると、誰彼の見境いもなしに灸をすえてやろうと、執拗く持ちかけるからで・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・「ほんとに安いものね。六円いくらでみんな揃うんだから……」 自分はクルリと寝返りを打ったが、そっと口の中で苦笑を噛み潰した。 六円いくら――それはある雑誌に自分が談話をしたお礼として昨日二十円届けられた、その金だった。それが自分・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・仕方なしに一番安い文芸雑誌を買う。なにか買って帰らないと今夜が堪らないと思う。その堪らなさが妙に誇大されて感じられる。誇大だとは思っても、そう思って抜けられる気持ではなかった。先刻の古本屋へまた逆に歩いて行った。やはり買えなかった。吝嗇臭い・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・「無闇な事も出来ますまいが、今度の設計なら決して高い予算じゃ御座いませんよ、何にしろあの建坪ですもの、八千円なら安い位なものです」「いやその安価のが私ゃ気に喰わんのだが、先ず御互の議論が通ってあの予算で行くのだから、そう安ぽい直ぐ欄・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・外米は、内地米あるいは混合米よりもいくらか値段が安いのでそこを見こんで買うのである。これを米屋の番頭から聞きこんだあるはしっこい女は、じゃ、うちにある外米を売ってあげよう、うんと安くしてあげてもかまわないから、と云いだした。 往復一里も・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・ そこで、漁業会社は、普通相場の五分の一にあたる安いルーブル紙幣を借区料としてサヴエート同盟へ納めるのだった。そして、ぬくらんと懐を肥やして、威張っていた。 密輸入者の背後には、その商品を提供する哈爾賓のブルジョアが控えているばかり・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・自分は人々に傚って、堤腹に脚を出しながら、帰路には捨てるつもりで持って来た安い猪口に吾が酒を注いで呑んだ。 見ると東坡巾先生は瓢も玉盃も腰にして了って、懐中の紙入から弾機の無い西洋ナイフのような総真鍮製の物を取出して、刃を引出して真直に・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ 安い思いもなしに、移り行く世相をながめながら、ひとりでじっと子供を養って来た心地はなかった。しかし子供はそんな私に頓着していなかったように見える。 七年も見ているうちには、みんなの変わって行くにも驚く。震災の来る前の年あたりに・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・した今度の新しい叢書は著作者の顔触れも広く取り入れてあるもので、その中には私の先輩の名も見え、私の友だちの名も見えるが、菊版三段組み、六号活字、総振り仮名付きで、一冊三四百ぺージもあるものを思い切った安い定価で予約応募者にわかとうというので・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・立派な身なりの、五十年配の奥さんが、椿屋の勝手口にお酒を売りに来て、一升三百円、とはっきり言いまして、それはいまの相場にしては安いほうですので、おかみさんがすぐに引きとってやりましたが、水酒でした。あんな上品そうな奥さんさえ、こんな事をたく・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
出典:青空文庫