・・・と津田君はいかに得意の心理学でもこれは説明が出来悪いとちょっと眉を寄せる。余はわざと落ちつき払って御茶を一杯と云う。相馬焼の茶碗は安くて俗な者である。もとは貧乏士族が内職に焼いたとさえ伝聞している。津田君が三十匁の出殻を浪々この安茶碗につい・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・思う人の接吻さえ得なばとクララの方に顔を寄せる。クララ頬に紅して手に持てる薔薇の花を吾が耳のあたりに抛つ。花びらは雪と乱れて、ゆかしき香りの一群れが二人の足の下に散る。…… Druerie の時期はもう望めないわとウィリアムは六尺一寸の身を・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・単に蒐集狂という点から見れば、此煙管を飾る人も、盃を寄せる人も、瓢箪を溜める人も、皆同じ興味に駆られるので、同種類のもののうちで、素人に分らない様な微妙な差別を鋭敏に感じ分ける比較力の優秀を愛するに過ぎない。万年筆狂も性質から云えば、多少実・・・ 夏目漱石 「余と万年筆」
・・・ほんに思えばあの嬉しさの影をこの胸にぴったり抱き寄せるべきであったろうに。あの苦労の影を熟く味ったら、その中からどれ程嬉しさが沸いたやら知れなんだ物を。ああ、悲の翼は己の体に触れたのに、己の不性なために悲の代に詰まらぬ不愉快が出来たのだ。も・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ 遠くの方から、ザザーッと、波の寄せる様な音をたてて風の渡って来るのを聞くと、秋の末の、段々寒さに向う頃の様な日和だと染々思う。 亡くなった妹の事や、浅ましい身に落ちて行く友達が悲しく思い出された。・・・ 宮本百合子 「雨の日」
・・・ 町々のどよめきが波が寄せる様に響くのでまるで海に来て居る様な気持になって波に洗われる小石のすれ合う音や藻の香りを思い出し、足の下からザクザク砂を踏む音さえ聞えて来そうであった。 これから書こうと思って居るものの冒頭を考えたりしなが・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ 初めの間は母に叱られるのを考えて足をムズムズさせながらも我慢して居たが、其等の騒がしい音は丁度楽隊が子供の心を引き付けるより以上の力で病室へ病室へと私の浮足たった霊を誘い寄せるのであった。 私の我慢は負けて仕舞った。 そして到・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・、あるいは先生自身の内から出たのか、それを判断することはできないが、晩年まで衰えることのなかった先生の旺盛な探求心のことを思うと、あのとき先生が大学の方へ調子を合わせようとせずに、自分の方へ大学をひき寄せるようにせられたならば、日本の学界の・・・ 和辻哲郎 「露伴先生の思い出」
出典:青空文庫