・・・ とキクちゃんが小声で言った。 私は手さぐりで、そろそろ窓のほうに行き、キクちゃんのからだに躓いた。キクちゃんは、じっとしていた。「こりゃ、いけねえ。」 と私はひとりごとのように呟き、やっと窓のカアテンに触って、それを排して・・・ 太宰治 「朝」
・・・辰さんは小声で義太夫を唸りながら、あらの始末をしている。女中部屋の方では陽気な笑声がもれる。戸外の景色に引きかえて此処はいつものように平和である。 嵐の話になって婆さんは古い記憶の中から恐ろしくも凄かった嵐を語る。辰さんが板敷から相槌を・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・と婆さんが瞳を据えて小声で云う。なるほど陰気な声である。今夜はここへ寝る事にきめる。 余は例のごとく蒲団の中へもぐり込んだがこの唸り声が気になって瞼さえ合わせる事が出来ない。 普通犬の鳴き声というものは、後も先も鉈刀で打ち切った薪雑・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・と、小万は小声で言ッて眉を皺せた。「察しておくれよ」と、吉里は戦慄しながら火鉢の前に蹲踞んだ。 張り替えたばかりではあるが、朦朧たる行燈の火光で、二女はじッと顔を見合わせた。小万がにッこりすると吉里もさも嬉しそうに笑ッたが、またさも・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 王子は大臣の子の手をぐいぐいひっぱりながら、小声で急いで言いました。「さ、行こう。さ、おいで、早く。追いつかれるから」 大臣の子は決心したように剣をつるした帯革を堅くしめ直しながらうなずきました。 そして二人は霧の中を風よ・・・ 宮沢賢治 「虹の絵具皿」
・・・第三の精霊 有がとう、美くしいシリンクス、何とか云うて下されたんだ一こと、死ねとでも――精女二人の精霊は向うを向いた木によっかかって何か小声で話し合って居る。第三の精霊 何とか云うて下され精女、死ねとでも云うて下され・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・ 山田はその顔を見て、急に思い附いたらしい様子で、小声になって云った。「君はぐんぐん為事を捗らせるが、どうもはたで見ていると、笑談にしているようでならない。」「そんな事はないよ」と、木村は恬然として答えた。 木村が人にこんな・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・末の方になったら段々小声にならなくてはいけない。 一 町なかの公園に道化方の出て勤める小屋があって、そこに妙な男がいた。名をツァウォツキイと云った。ツァウォツキイはえらい喧嘩坊で、誰をでも相手に喧嘩をする。人を打つ。・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・とれよ。今度俺とこへ来さらしたら、殴打しまくるぞ。」 安次は戸口へ蹲んだまま俯向いて、「もうどうなとしてくれ。」と小声で云った。「当分ここにおったらええが、その中に良うなろうぜ。」 そう勘次が静に云うと、安次は急に元気な声で・・・ 横光利一 「南北」
・・・ 私はこんな空想にふけりながら、ぼんやり乳飲み児を見おろしている母親の姿をながめ、甘えるらしく自分により掛かってくる女の子を何か小声で言いなだめているらしい、老婆の姿をながめ、見るともなく正面を見つめている老爺の悲しむ力をさえ失ったよう・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫