・・・その広い川に小舟が一艘浮いて居る。勿論月夜の景で、波は月に映じてきらきらとして居る。昼のように明るい。それで遠くに居る小舟まで見えるので、さてその小舟が段々遠ざかって終に見えなくなったという事を句にしようと思うたが出来ぬ。しかしまだ小舟はな・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・例、山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな蚊帳を出て奈良を立ち行く若葉かな不尽一つ埋み残して若葉かな窓の灯の梢に上る若葉かな絶頂の城たのもしき若葉かな蛇を截って渡る谷間の若葉かなをちこちに滝の音聞く若葉かな ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・その甘ったるい夕方の夢のなかで、わたくしはまだあの茶いろななめらかな昆布の干された、イーハトーヴォの岩礁の間を小舟に乗って漕ぎまわっていました。俄かに舟がぐらぐらゆれ、何でも恐ろしくむかし風の竜が出てきて、わたくしははねとばされて岩に投げつ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・人生の風波の間に、自分という可愛い小舟をホンローさせず、人間、女として自身の進路を見出してゆかなければならないと思います。 どうか皆さま、お元気に。よろこびが、あなたの前途にみちているように。苦しみと悲しみがあなたを囲んだとき、涙の・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
・・・ 刻々と揉む歴史の濤頭は荒くて、ふるい女らしさの小舟はすでに難破していると思う。私たちは、近代の科学で設計され、動的で、快活で、真情に富んだ雄々しい明日の船出を準備しなければならないのだと思う。〔一九四〇年二月〕・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・生の根源というものは、どんな歴史の現実に深く根をおろしているものであるかということの証拠であると思う。小船は、一つ一つの波にはゆられているが大局からみればちゃんと一定の方向で波全体を漕ぎわけてゆく。そのようにわたしたちは、起伏する社会現象を・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十五巻)」
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ回されることであった。それを護送するのは・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・信濃川にいでて見るに船橋断えたり。小舟にてわたる。豊野より汽車に乗りて、軽井沢にゆく。途次線路の壊れたるところ多し、又仮に繕いたるのみなれば、そこに来るごとに車のあゆみを緩くす。近き流を見るに、濁浪岸を打ちて、堤を破りたるところ少からず。さ・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・帆を張った二三十艘の小舟が群れをなして沖から帰って来る。そして鳩が地へ舞いおりるように、徐々に、一艘ずつ帆をおろして半町ほどの沖合いに屯した。岸との間には大きい白い磯波が巻き返している。いつのまにか薄穢ない老人と子供とが岸べに群がり立った。・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・ 寝たと思うとすぐに起こされたような感じで、朝はひどく眠かったが、宿の前から小舟に乗って淀川を漕ぎ出すと、気持ちははっきりしてきた。朝と言ってもまだまっ暗で、淀川がひどく漫々としているように見える。それを少し漕ぎ下ってから、舟は家と家と・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫