・・・いや、ただ一度、小雨のふる日に、時鳥の啼く声を聞いて、「あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。」とつぶやいた事がある。その時でさえ、宇左衛門が、それを潮に、話しかけたが、彼は、また黙って、うす暗い空へ眼をやってしまった。そのほかは、勿論、唖のよう・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・思わず身をすり寄せて、素足のままのフランシスの爪先きに手を触れると、フランシスは静かに足を引きすざらせながら、いたわるように祝福するように、彼女の頭に軽く手を置いて間遠につぶやき始めた。小雨の雨垂れのようにその言葉は、清く、小さく鋭く、クラ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・千束の寮のやみの夜、おぼろの夜、そぼそぼとふる小雨の夜、狐の声もしみじみと可懐い折から、「伊作、伊作」と女の音で、扉で呼ぶ。「婆さんや、人が来た。」「うう、お爺さん」内職の、楊枝を辻占で巻いていた古女房が、怯えた顔で――「話に聞いた魔も・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 七兵衛はばったのような足つきで不行儀に突立つと屏風の前を一跨、直に台所へ出ると、荒縄には秋の草のみだれ咲、小雨が降るかと霧かかって、帯の端衣服の裾をしたしたと落つる雫も、萌黄の露、紫の露かと見えて、慄然とする朝寒。 真中に際立って・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・頬張るあとから、取っては食い、掴んでは食うほどに、あなた、だんだん腹這いにぐにゃぐにゃと首を伸ばして、ずるずると鰯の山を吸込むと、五斛、十斛、瞬く間に、満ちみちた鰯が消えて、浜の小雨は貝殻をたたいて、暗い月が砂に映ったのです。と仰向けに起き・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ 鉄砲で狙われた川蝉のように、日のさす小雨を、綺麗な裾で蓮の根へ飛んで遁げた。お町の後から、外套氏は苦笑いをしながら、その蓮根問屋の土間へ追い続いて、「決して威す気で言ったんじゃあない。――はじめは蛇かと思って、ぞっとしたっけ。」・・・ 泉鏡花 「古狢」
序山吹の花の、わけて白く咲きたる、小雨の葉の色も、ゆあみしたる美しき女の、眉あおき風情に似ずやとて、――時 現代。所 修善寺温泉の裏路。同、下田街道へ捷径の山中。人 島津正洋画家。・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・「よいあんばに小雨になった、さァ出掛けましょう」 雨は海上はるかに去って、霧のような煙のような水蒸気が弱い日の光に、ぼっと白波をかすませてるのがおもしろい。白波は永久に白波であれど、人世は永久に悲しいことが多い。 予はお光さんと・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・ 船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個につめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽がつまって声が・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま暖かな日かげも射してまことに気まぐれな空合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧し気にみえる人の眼・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
出典:青空文庫