・・・が、その心もちは口を出ると、いつか平凡な言葉に変っていた。「よっぽど待ったかい?」「十分も待ったかしら?」「誰かあすこに店の者がいたようじゃないか?――おい、そこだ。」 車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒を店の前へ下し・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・監督が父の代から居ついていて、着実で正直なばかりでなく、自分を一人の平凡人であると見切りをつけて、満足して農場の仕事だけを守っているのは、彼の歩いて行けそうな道ではなかったけれども、彼はそういう人に対して暖かい心を持たずにはいられなかった。・・・ 有島武郎 「親子」
・・・残るところはただ醜き平凡なる、とても吾人の想像にすらたゆべからざる死骸のみではないか。 自由に対する慾望は、しかしながら、すでに煩多なる死法則を形成した保守的社会にありては、つねに蛇蠍のごとく嫌われ、悪魔のごとく恐れらるる。これ他なし、・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ 時に、継母の取った手段は、極めて平凡な、しかも最上常識的なものであった。「旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。」「いいえ、貴方。」 判然した優しい含声で、屹と留めた女が、八ツ口に手を掛ける、と口を添えて、袖着の糸をきりきり・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・そりゃあまり平凡じゃと君はいうかもしれねど、実際そうなのだからしかたがない。年なお若い君が妻などに頓着なく、五十に近い僕が妻に執着するというのはよほどおかしい話である。しかしここがお互いに解しがたいことであるらしい。 貧乏人の子だくさん・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・僕は、周囲の平凡な真ん中で、戦争当時の狂熱に接する様な気がした。「大石軍曹は」と、友人はまた元の寂しい平凡に帰って、「その行くえが他の死者と同じ様に六カ月間分らなんだ、独立家屋のさきで倒れとったんを見た云うもんもあったそうやし、もッとさ・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・何十年来シベリヤの空を睨んで悶々鬱勃した磊塊を小説に托して洩らそうとはしないで、家常茶飯的の平凡な人情の紛糾に人生の一臠を探して描き出そうとしている。二葉亭の作だけを読んで人間を知らないものは恐らく世間並の小説家以上には思わないだろうし、ま・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。陸放翁のいったごとく「我死骨即朽、青史亦無名」と嘆じ、この悲嘆の声を発してわれわれが生涯を終るのではないかと思うて失望の極に陥ることがある。しかれども私はそれより・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 今の文壇が平凡だというのは、必ずしも作者が平凡を以て主義としているからではない。また現代の作家が斯くの如き感激に乏しい生活に人生の深い意義を見出そうとして、ものを書いているわけでもない。要するに、作者自身の生活に感激がないから、その作・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・ けれど、その実吉新の主の新造というのは、そんな悪でもなければ善人でもない平凡な商人で、わずかの間にそうして店をし出したのも、単に資本が充分なという点と、それに連れてよそよりは代物をよく値を安くしたからに過ぎぬので、親父は新五郎といって・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫